フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」

三宅勝久【東京アパルトヘイト観察記】vol.3「続・南アのアパルトヘイトと日本の裁判所」

2011/12/22 18:02 投稿

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週刊 石のスープ
定期号[2011年12月22日号/通巻No.19]

今号の執筆担当:三宅勝久
※この記事は、2011年12月に「まぐまぐ」で配信されたものを、「ニコニコ・チャンネル」用に再配信したものです。



■倒錯した特権意識の現われ

 実質がどうなっているかは別にして、日本は少なくとも建前上は「法治国家」ということになっている。
  法治国家において人の行動を規制したり支配するのは法である。人間ではない。人が人を支配するようになれば、その社会はもはや法治社会ではなく、「専制社 会」「専制国家」というのがふさわしい。古典的名著『犯罪と刑罰』(ベッカリーア)にもそう説かれている。法がゆがめられたり壊されると、法治国家も崩れ てしまう。そうならないために法を守る重要な機関が裁判所である。「法の番人」というその名のとおり、裁判官は法を守るのが仕事であって、間違っても法そ のもの──つまり支配者ではない。
 もし裁判官が「番人」の職域を超えて「法」になったとすれば、その裁判官は法の上に立ち、人を支配することになる。つまり人が人を支配する専制社会の到来を意味する。

  筆者がこうやって自分の考えを文字に著し、みなさんにお届けすることが出来るのは日本の法によって守られた権利があるからだ。もし、言論表現の自由を保障 した日本国憲法がなければ、フリージャーナリストなどという職業自体が存在していないかもしれない。憲法“改正”を声高に叫ぶ人が多いが、そうした主張の 発信源になっているのは、憲法の縛りを邪魔に感じている人たちだろう。憲法を攻撃する理由などほかに考えられない。憲法攻撃の強まりとは、この国を法の支 配から人間の支配へ変貌させる力学の高まりである。筆者はそう考える。

 前回の記事で、東京地裁・高裁の検査が差別的である、というお話をお伝えした。
 なぜ裁判所の「差別」に目くじらをたてるのか。それは、裁判所や裁判官というのは法の番人であり、法が守られてこそ法治国家たる日本社会の民主主義が守られる。そう思うからこそである。

 「法が守られて」と書いたが、これには二つの意味がある。一つは国民が法を守るという一般的な意味である。それに加えて、もう一つは、法がゆがめられないように、法が壊されないように法そのものを守るということである。
 
  法的な根拠も示すことができないまま、法の番人である裁判所が、弁護士・職員・任意団体「記者クラブ」の会員・検察庁職員・警察官だけを、職務で訪れよう が私事で訪れようが関係なく無検査で施設内に通す。大型リュックを背負っていてもまったく検査なく、身分証(らしきもの)やバッジをチラつかせるだけで中 に入れる。その一方で、それ以外の「一般人」は荷物と身体を徹底的に検査する。たとえ裁判所に用事があってとしても、開廷時間が迫っているとか、答弁なり 控訴の期限があと何分という緊急事態だったとして
も例外は許さない。
 こうした光景が東京地裁・高裁で毎日繰り広げられている。
 

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