石のスープ
定期号[2011年12月9日号/通巻No.16]
今号の執筆担当:渡部真
※この記事は、2011年12月に「まぐまぐ」で配信されたものを、「ニコニコ・チャンネル」用に再配信したものです。
■伝える責任を負う覚悟
最初に被災地を訪れた頃は、まだ自分自身が取材するという意識はほとんどなく、記者仲間たちを車で送り届けるつもりだった、という話はすでに書いた。
しかし、いざ被災地に行ってしまえば、やはり自分自身も聞きたいことが出てくるし、写真に収めたいという感情が自然と湧き上がってくる。話を聞いてしまい写真を撮ってしまえば、それを伝えなければいけない、責任が生じる。
正直に言うと、3月16日に最初に水戸に行き、その後仙台に行ったとき、僕には、取材してそれを伝える覚悟が出来ていなかった。いま振り返って当時の録音を聞き返すと、迷いながらインタビューしていることがよく分かる。覚悟が出来たのは、3月23日に再び仙台に行ったときだったと思う。この日は一人で仙台に行き、一人で市内を取材した。事前に東京で情報を仕入れ、津波被害の大きかった若林区にあるフリースクールを訪れた。フリーランスとしてとくに専門分野を持たずに、いろんな仕事をしてきているが、教育現場の取材はずっと続けている。この震災を通して、学校や教育機関がどんな役割を果たし、そこで何が起きていたのか、子供たちにどんな変化があるのかを見て、それを伝えることならば、僕なり取材した責任を果たすことができるんじゃないかと考えたからだ。
そうして取材を始めた矢先に、渋井さんから5月早々に書籍を作るから一緒に書かないかと誘われた。「ニコニコニュース」編集長の亀松太郎さん、ルポライターの西村仁美さんなどよく知る人たちと、戦場ジャーナリストの村上和己さんと5人で手分けするという。
すっかり前置きが長くなってしまった。今回は、同書で紹介したある姉妹の話……。
■避難所を点々としながら450キロも移動
福島県相馬市の磯部地区。3月11日、広大な田んぼ一帯を津波が襲った。
磯部で生まれ育った駒場由里絵さんと美咲季さん姉妹は、祖母と3人で暮らしていた。姉の由里絵さんは高校2年生(当時1年生)、妹の美咲季さんは中学3年生(同2年生)。父親は新潟に長期出張して不在で、母親は離婚し22歳になる兄とともに、10年以上行方しれずだった。
詳しくは、ぜひ「3.11 絆のメッセージ」(176ページ)を読んでいただければと思うが、この高校生と中学生の姉妹が、年老いた祖母を連れ、震災直後から避難所を点々として過ごした。相馬→南相馬→会津若松→二本松→南相馬→相馬と、3月15日から26日まで避難所を点々とした。東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴い、姉妹と祖母は、周囲の大人たちに引っ張られ移動生活を余儀なくされた。
当時の混乱ぶりはひどかった。会津若松から二本松に移動する時なども、実は二本松ではなくいち早く避難者の受け入れを表明した東京都杉並区に集団で向かっていたのだが、すでに杉並区の受け入れがパンク状態という連絡が途中で入り、福島県にバスが引き返し、ようやく二本松が受け入れてくれると連絡が取れて移動したという。
こうした大人たちの混乱ぶりをみていた姉妹は、自ら相馬市に戻ることを決意し、磯部地区の住人の多くが避難している相馬市総合福祉センターに祖母と一緒に避難した。その間、ざっと計算すると、約450キロも移動したことになる。
由里絵さんと美咲季さん、そして祖母の3人は、この総合福祉センターでようやく腰をおちつけせることができたのだった。
■突然の再会
相馬市総合福祉センター「はまなす館」は、僕と渋井さんがたびたび取材に訪れた避難所だった。多くの人たちにインタビューをさせてもらったが、そんな中で二人姉妹が頑張っている姿は、僕の中で強い印象を残していた。
とくに姉である由里絵さんは、新潟にいる父親が帰って来られないにも関わらず、家族の代表として、避難所の大人たちに混ざって気丈に振舞っていた。
「はまなす館」での避難生活が1か月になろうという4月下旬、そんな姉妹のもとに突然、十数年前から連絡もなかった母親の裕子さんが、兄と一緒に訪ねてきた。
南相馬市で暮らしていた裕子さんたちは、震災後に実家のある飯舘村に避難していたが、少し落ち着いた4月になって、姉妹のことが心配で探しに来たのだった。
「磯部の家に行ってみたら家は流されちゃってるし、市役所に行って避難者名簿を確認したら、お婆ちゃんと由里絵の名前はあるのにお父さんと美咲季の名前が載ってなくて、ビックリしてね。あの子とお父さん、どうしちゃったの? 流されちゃったの? って。はまなす館の前まで来たけど、会うのが怖くて。そしたら、息子が『ここまで来て何言ってんだ!』って言って背中押してくれて……」
そう語る裕子さん。
裕子さんがはまなす館に行ったとき、姉の由里絵さんはおらず、美咲季さんと祖母が先に再会を果たす。しかし、幼い頃に生き別れた美咲季さんは、母親の記憶がほとんどなかったため、裕子さんや兄を見ても、まったくわからなかったと言う。
「最初は、誰、この人?みたいな感じだったけど、お婆ちゃんが『美咲季は覚えてないかもしれないけど、お母さんだよ』って。そしたら何か悲しくなってきちゃって、そこからは大泣きしちゃった」
一方、由里絵さんは、母と兄との再会にアッケラカンとしていたそうだ。由里絵さんはこう話す。
「私はすぐにお母さんってわかったから、『あ、どうも、お久しぶり〜』って言って」
■生きていくことに必死だった
娘たちと再会した裕子さんは、もう離れられないと感じた。
「最初は、子供たちの顔見て生きているってわかったら、何か好きな物でも買ってあげて、それで帰ろうと思ったんですよ。だけど、避難所で会ったら、子供たちだけでかわいそうでね。仮設の申し込みだ、義援金だ、って大人に混じって子供たちがやってても、判子押すのだって、実際には子供たちじゃどうにもできないことがあってね」
兄は飯舘村の実家に帰し、裕子さんは再会の日から「はまなす館」に残って、姉妹と一緒に暮らすことにした。
4月末には、父親が長期出張から帰ってきた。
裕子さんは離婚した夫と再会したときの複雑な心境を語ってくれた。
「最初はね、十数年ぶりのわだかまりがあったんですよ、ただね、あの頃はみんな生きていくのに必死で、そんな事を言ってられない状況だったのね。娘とはもう離れられないって思っていたし、いつまで続くかわからない避難生活も大変だったから」
こうして姉妹と兄と両親、そして祖母の駒場家は、再び一つの家族として再スタートすることになった。
現在は、裕子さんの実家があった飯舘村が村ごと避難することになったため、兄は母方の祖母の面倒を見るために福島の仮設住宅におり、姉妹と両親と父方の祖母が、相馬市の仮設住宅で暮らしている。
■7か月も経って知った素顔
11月、約4か月ぶりに由里絵さんの話を聞くことが出来た。由里絵さんと最後に会ったのは、一時は400人ほどが避難していた「はまなす館」が閉鎖し、仮設住宅に移動する日だった。長かった避難生活から、仮設とはいえようやく家族だけで暮らせるようになった由里絵さんは、初めて会った頃よりも高校生らしくなったように感じた。
「はまなす館」の由里絵さんは、少なくとも僕の前では、いつでもシッカリ者として振舞っていた。しかし、やっぱり無理をしていたのだろう。
両親が揃って生活するようになって間もなく、5月になると由里絵さんは2回も入院した。母親の裕子さんによると、幼い頃は病弱で何度も入院したそうだが、由里絵さん自身は入院するまで自覚がなかったと言う。小さい時から母親がいない生活のなかで、姉として気を張っていたのかもしれない。とくに震災以降は、なおさら緊張して過ごしていたんだろうというのは、想像に固くない。
兄ができたのが、すごく嬉しいと由里絵さんは言う。時折、福島市から相馬市まできてくれる時は、兄の車でドライブに連れて行ってもらったり、欲しい物を買ってもらったりと、いつも甘えているそうだ。
あんなにシッカリして見えて由里絵さんも、すっかり普通の高校生らしさを取り戻し、裕子さんや妹の美咲季さんと話す姿が、以前とはまったく違って見えた。まだ不自由な避難生活が続いているが、それでも、これが彼女の本来の顔なんだろうということを、出会ってから7か月も経ってようやく知ることが出来た気がする。
もちろん、その素顔はとても素敵な笑顔だ。
左からお父さん、由里絵さん、裕子さん、美咲季さん
(写真提供:渋井哲也)
いま、この原稿を岩手県釜石市のホテルで書いています。12月11日は、33回目を迎える「かまいしの第九」という合唱会が開催され、釜石で継続取材を続けている中学校が出演するため、その様子を取材しに来ています。
地震、津波、避難生活、そして親しい人の死や突然の別れ……。大人もそうだが、経験値の少ない子供たちは、二度とないような体験をたった数か月でいっぺんに体験している。
まだまだ辛い思いを抱えているかもしれないし、見えないところで傷ついていることもあるかもしれない。しかし、そんな中でもたくさんの子供たちが、前向き に過ごしている姿を見せてくれている。こうした子供たちを見続けていくことで、きっと僕が何かを伝えられることができるんだろう信じて、もう少し東北の取 材を続けてこうと、改めて自分の心に言い聞かせています。
■好評発売中
「3.11 絆のメッセージ」
亀松太郎、渋井哲也、西村仁美、村上和巳、渡部真、ほか共著
発行元:東京書店
定価:1000円
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http://www.amazon.co.jp/gp/product/4885743117
震災直後からの1か月半、東北の被災地を中心に、どんなことが起きていたのか?
取材の中で知ることができた一人ひとりに起きたエピソードを、5人の仲間達でルポとしてまとめました。また、日本や世界から被災した皆さんに向けたメッセージも編集部で集め、あわせて紹介。
この本は5月に緊急出版され、それからすでに数か月経ちましたが、今一度、あの時に皆が感じたことを思い出し、その気持ちを忘れないためにも、ぜひご一読ください。
■増刷出来!
「自由報道協会が追った3.11」
自由報道協会・編
上杉隆、神保哲生、津田大介、日隅一雄、畠山理仁、渋井哲也、江川紹子、渡部真、ほか
発行元:扶桑社
定価:1400円
→ アマゾンにジャンプ ←
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4594064957/
自由報道協会の有志の面々と、東日本大震災について共著を上梓しました。
それぞれのジャーナリストたちが、この半年間、どのように震災と関わってきたか? この半年間をどう考えているのか? 震災とメディアのあり方、震災以降のメディアの変化、そしてこの半年間で被災地で起こった出来事の数々……
渋井と渡部は、それぞれ2本のルポを書いています。また、全体の構成や編集も担当。
渡部真 わたべ・まこと
1967 年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執 筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。
[Twitter] @craft_box
[ブログ] CRAFT BOX ブログ「節穴の目」
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