石のスープ
定期号[2013年2月21日号/通巻No.69]
今号の執筆担当:渡部真
【今号の内容】
□大川小学校の検証委員会を見て
■犠牲になった児童数「74人」の重み
■対照的に比べられる「釜石の奇蹟」は本当か?
■傷ついた遺族が納得できる検証結果になるか
□質問コーナー「一度の取材にかかる経費は?」
■犠牲になった児童数「74人」の重み
東日本大震災を取材するなかで、いくつかの学校を取材して来た事はこれまでもこのコラムの中で書いてきた。これらの学校のなかに、宮城県石巻市立大川小学校がある。
この学校の事は、拙編著『風化する光と影』(マイウェイ出版)のなかで、渋井哲也さんが紹介してくれているし、あまりにも有名になったので、同校の記事を読んだ人も多いだろう。
大川小学校は、東日本大震災の際に発生した津波が北上川を逆流し、川の近くにあった校舎が呑み込まれた。河口から約5キロほど上流にあり、近代になって起こった過去の三陸地域の津波でも、大きな被害がなかったため、地域の人達は津波被害を予測していなかった(一応、学校の防災マニュアルには津波想定が前提となっているが、不十分だったため、その事も問題になっている)。
同校では、震災当時、児童108人が在籍していたが、一部の児童は地震直後に保護者に引き渡された。校舎に残っている児童たちは、教職員達が避難について検討している間、校庭で避難していた。その間、教職員や地元住人達が、裏山に避難するか、近くの高台となっている三角地帯に避難するか検討していたが、地震発生から約40分後、いよいよ津波から避難すべきとなり、三角地帯に向かった。しかし、三角地帯は川にかかる橋のたもとにあり、むしろ危険が大きかった。津波はその三角地帯からも流れ込み、校舎の裏の河口堤防も超え、児童たちは津波に挟まれた形で呑み込まれた。死亡・行方不明合計74人の児童が犠牲となった。教職員も10人が亡くなっている。
※以下、写真や図版は、クリックすると大きくなります。
[キャプション]震災から1カ月後の大川小学校校舎(2011年4月15日)
[地図1]宮城県
[地図2]石巻市と大川小学校
※震災前の地形のため、地盤沈下や浸水等、現在の地形とは若干異なる
[図版]震災当時の大川小学校周辺
この大川小学校の悲劇が紹介される際、よく「全校児童の7割が犠牲」と言われるが、僕はこの学校のことを取材し始めてからずっと、「全児童の7割」という数字より、74人という人数の多さが異常だと考えている。
東日本大震災で犠牲となった、岩手、宮城、福島3県の小学生は、228人(死亡・行方不明合計/2011年5月現在)。3県を南北に結ぶと直線距離で三百数十キロにもなる。東京と名古屋よりも遠い距離だ。その広い範囲にいるすべての小学生の犠牲者が228人。その約3分の1にあたる74人の犠牲児童が、大川小学校の学校管理下で亡くなったということになる。全校児童100人程度の小規模校だ。石巻の他の学校、北上川沿いにある学校でも犠牲は出ているが、何十人規模という犠牲はない。いかに大川小学校の悲劇が突出している数字か……。
なので、「全校児童の7割」という表現は、できるだけ使わないようにしている。
さらに大川小学校の犠牲が特異なのは、亡くなった児童が学校管理下にあったことだ。しかも、下校途中の児童ではなく、教職員が避難誘導を指示する目の前にいながら、児童が亡くなってしまったという点だ。
大川小学校の犠牲児童を除けば東北3県で約150人の児童・生徒が亡くなるか行方不明となっているが、下校途中の児童・生徒を除いて学校管理下で亡くなった犠牲者数は数人と推測される(正式な数は発表されていない)。
つまり、大川小学校の犠牲は、犠牲者数という規模の面でも、また学校管理下児童の安全性という側面でも、極めて特別な事故だった。これは、東日本大震災という未曾有の災害の一つの事象として捉えるだけではなく、日本の歴史の中でも特筆すべき大きな事故だと捉えるべき問題だと思う。
その大川小学校の被害の実態を明らかにするため、震災から2年が経とうとしている2月7日、ようやく市や文部科学省が設置した第三者機関「大川小学校事故検証委員会」の初会合が開かれた。すでに多くのメディアでも取り上げられている。
[毎日新聞]石巻・大川小:事故検証委が初会合 震災後の対応も対象に
http://mainichi.jp/select/news/20130208k0000m040110000c.html
[FNN]震災時の宮城・大川小の避難行動などを検証する第3者委が初会合(動画)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00240136.html
今後、関係者などへの聞き取り調査や会合を重ね、今年末までに検証結果を出す予定になっている。
■対照的に比べられる「釜石の奇蹟」は本当か?
この初会合で気になった事があった。検証委員の多くが、岩手県との比較、とくに釜石市との比較を口にしていた。いわゆる「釜石の奇跡」だ。「大川小学校の悲劇」と対照的な美談として取り上げられる事が多い。
釜石市の学校についても、震災以降、取材を続けており、やはり『風化する光と影』で渋井さんがレポートを書いてくれている。
学校管理下にあった、釜石東中学校の生徒たちは、教師たちに導かれるのではなく、自らの意思で避難。途中、隣接する鵜住居小学校の児童たちの手を引きながら、両校の学校管理下の生徒・児童には一人の犠牲も出さずに避難することができた。他にも唐丹小学校も校舎は丸呑みされたものの、学校管理下にあった児童たちは教師達とともに無事に避難。また、市街地にある釜石小学校は、地域全体が津波に飲まれたにも関わらず、すでに学校管理下になかった多く児童たちが、自らの高台に避難し、全校児童の命が助かった。
古くからの言い伝えである「津波てんでんこ」という教訓と釜石市の津波防災教育が、釜石小学校の児童や、釜石東中学校の生徒たちのように、自らの意思で行動できる成果に繋がったとされている。
確かに、釜石東中学の生徒たちの話を聞くと、多くの生徒たちの意識の中に、津波に対する意識の高さが見える。同校に限って言えば、津波防災教育は効果的だったと言える。
渋井さんは、この釜石の奇跡のエピソードを聞いて、「じゃあ、学校管理下になかった生徒は?」と疑問を感じたという(例えば、釜石東中学校では、休んでいた生徒が一人、津波の犠牲になっている)。当初僕は、そこにはあまり関心を持たず、教育的側面の一つの事例として、興味を持っただけだった。とはいえ、「釜石の奇跡」の話を現地で直接聞きたかったので、震災から4カ月経った7月になり、ようやく釜石に訪れた。ただ、現実問題として、東京から車で高速を使い、ほとんど休憩しないで走っても8時間くらいかかる釜石に、それほど多く訪れる予定はなかった。しかし、釜石で取材を始めてすぐに、思っていた以上に関心が高まった。
事前に聞いていたイメージでは、「釜石では、まるで昔話の桃太郎の如く誰もが『津波てんでんこ』を知り、小学生も中学生も、地震が起きたら即座に高台へと逃げる訓練が徹底されている」と、勝手に思い込んでいた。
ところが、実際に地元の人たちに聞いてみると、「津波てんでんこ」なんて311以前には聞いた事もない、もしくは聞いた事はあっても意味がよくわからなかったという人が何人もいた。「津波が来たら、速攻で高台に逃げる」という防災意識は、それまでに同県で取材していた宮古、陸前高田に比べて高いとは全く思えなかったのだ。むしろ、地域によっては、岩手・宮城の別の沿岸部の方が意識が高いと感じられる事もあった。
学校や市教委で話を聞くと、数年前から年に1度程度の津波授業は実施されていたが、本格的な津波防災教育が行われるようになったのは、震災の3年前からだという。この「3年」が、僕の興味をひいた。たった3年で、「奇跡」と呼ばれるほどの教育効果があったんだとしたら、教育にとっての3年間を実証的に見るのは大きな意味がある。震災とは関係ないが、個人的な事を言うと、僕は現在の学校教育の「6・3・3・4制度」を変更すべきではないかと考えていたので、「中学生活3年の意味」を知るためにも、釜石の取材を続けたいと思い、本格的に取材することを決めた。
そうして生徒や地元の人たちに話をくわしく聞くと、「釜石の奇跡」の実体が少しずつ見て来た。去年の3月までに見えたものは、『風化する光と影』で渋井さんが書いてくれているので、詳しくはそちらを読んで欲しいが、けっして、すべての生徒が津波に対する意識を高く持っていたわけではない事が確認できた。
その上、奇跡の象徴として取り上げられる事が多い釜石小学校や鵜住居小学校に至っては、僕が話を聞いた児童たちの多くは「よくわからないけど、何となく逃げた」と話している。だからこそ、NHKなどが「釜石の奇跡」として小学生を取り上げるのは、すごく違和感があった。小学校の児童と言えば、6年生なら12歳だ。その年頃になれば、ある程度は防災意識もあるだろうが、1年生はまだ6〜7歳だ。しかも、小学生の多くは、年に1〜2度、津波の講義を受ける程度だった。釜石小学校だけで百数十人の児童がいたわけだが、その全校児童が、高い意識をもって避難をしたはずがない。
たしかに、釜石では、学校管理下にあった生徒や児童は全員助かっており、それは素晴らしいことだ。学校管理下にない5人の児童・生徒が亡くなったが、犠牲の規模としては小さいと言える。もちろん、尊い命が失われたのだから甚大な犠牲だが、他の地域と比べて被害が少なかったと言われる理屈はわかる。しかし、それを「奇跡」と呼んでしまうのは、どうだろうか?
実際に、釜石で話を聞いた生徒や児童の中には、「奇跡じゃなくて偶然」という事を口にする子ども達も多い。そもそも、試行錯誤しながら独自の津波教育を実践してきた教職員もたちに「奇跡」というのは失礼だろう。まぁ、この辺りは、もう少し取材を続けて、改めて書きたいと思う。
[キャプション]周辺住民が避難した高台から見る釜石市の市街地(2013年2月10日)
■傷ついた遺族が納得できる検証結果になるか
さて、話は戻って、大川小学校の第三者検証委員会だ。
前述したとおり、検証委員の人たちが口々にした岩手や釜石との比較は、「宮城や石巻に比べて、岩手や釜石の人たちの津波防災の意識が高かった」ということを前提としているのだろう。しかし、実際にはそんなことはないと僕は思う。検証委員たちは、「震災以降、被災地に何度も足を運んだ」と言っていたが、どれほどちゃんと見ているんだろうか疑問に感じる。
たしかに、岩手と宮城では、被害の規模が違う。「津波は岩手の方が大きかったけど、被害は宮城の方が大きかった」と言われる。しかしそれは、一般市民の津波意識の高さに比例したものと言い切れるのか、僕は、断言できるような論証を見たことがない。
地形的な問題、地域行政の問題、住民の数など、複雑な要因が犠牲の規模に影響している。そもそも、仙台という東北最大の都市が沿岸にある宮城県と、県中心地が内陸の岩手県では、被害の規模が違うのは当然だ。
大川小学校は河口(沿岸)から5キロも上流の地域であり、ここでは書かないが、川の形状などを含めて、地形的に特殊な事情がある。
前述した通り、今後、順調にいけば年末には検証結果が明らかにされる予定だ。
[キャプション]遺族やマスコミに公開された検証委員会の初会合(2011年2月7日)
初会合が終わった後、大川小学校で犠牲となった児童の遺族たちから話を聞いた。
ある母親は「とりあえず、今日を見た限りでは、少し期待できそう。今までの市や市教委の対応が酷かったので、その点についても検証してほしい。校長はこれまで『学校側に怠慢はあったが、責任はない』と言い続け、責任を認めようとして来なかった。学校管理下にある子どもが死んで、学校に責任がないなんておかしい。学校側の責任がきちんと追及されるような検証になってほしい」と、期待を示した。
一方で、厳しい見方をする遺族もいる。ある男性遺族はこう答えた。
「これまで1年10カ月、一部の遺族達で独自に検証をしてきた。市は、釜谷地区(大川小学校周辺)に津波が来た記録はないと言うが、津波被害を記した古文書も見つけた。たった数回の会合で、自分たちより十分な検証ができると思えない。まったく期待できない」
別の遺族は、「検証委員の発言からみても、結局、裁判になった時に市や市教委の不利になるような検証結果は出て来ないのではないか?」と、今後、裁判に発展した際、行政に有利な検証結果が裁判所の“お墨付” にされることを危惧していた。
大川小学校の問題は、震災で犠牲となった児童の悲劇だけでなく、その後の市や教育委員会の対応が酷く、遺族たちに不信感を与え、傷つけてしまった事にもある。こうした感情のもつれもあり、遺族のなかには、行政や学校の責任を徹底的に追及すると考えている人達もいる。
前出の男性遺族は、学校の責任問題をこう話す。
「市教委は、震災後、災害時には児童を保護者に引き渡さないように防災マニュアルを変更した。しかし大川小学校では、親が引き取った児童は全員助かってるのに、学校管理下にあった児童のほとんどが犠牲になった。その責任は認めず、検証もまともにできないで、『次に震災があったら児童は引き渡しません』って言われて、安心して子どもを預けられるわけがない」
震災から2年が経とうとしているが、未だに子どもを失った怒りや、やり場のない気持ちは解消されない遺族たち。
検証委員会のメンバーには、過去の事故や災害の中で被害者の立場にたって活動をしてきた実績を持つ人も数人いる。例えば、美谷島邦子氏だ。美谷島氏は、1985年8月12日に起きた「日本航空123便墜落事故」の遺族会である「8.12連絡会」事務局長を務め、事故の実態解明を追及してきた人物だ。
美谷島氏は、筆者の取材に答え「自分がこの検証委員会に参加すべきか、本当に迷った。しかし、委員となったからには、できるだけ被害者の視点にたった検証をしていきたい。遺族の方々からの話も聞いていきたい」と話した。
ぜひ十分に深い検証をして、まだ明らかになっていない被害の実態が、少しでも解明され、今後の教訓になるように期待したい。傷ついた遺族のすべての人達が納得できる検証結果というのは難しい事だろう。そして、どんな検証結果になったとしても、この震災で失った命が戻るわけではない。しかし、これまでの行政や学校側が傷つけた遺族に対して、少しでもケアするものになるようにしてほしい。
一方で、前述した通り、大川小学校の犠牲は東日本大震災の悲劇のなかの一部という側面だけでなく、日本社会の歴史のなかでも特筆すべき事故だった。事故の検証はその教訓として繋がらなければならない。そのためにも、「釜石の奇蹟」などという実体のあやふやなものと安易に比較をせず、この大川小学校で何が起こったのかを徹底的に追及してほしい。
僕自身も、これからも自分なりの取材を続けたいと思っている。
[キャプション]現在の大川小学校の様子(2012年2月7日)。玄関前は、
遺族などの手によって、少しずつ慰霊碑などが飾られていっている。左の石塔
は、昨年秋に高松市の石工らによって寄贈された。今年になってから、焼香用
祭壇も造られた(手前右)
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■質問コーナー
読者の方から、質問をいただきました。
【匿名希望さんから】
「一度取材に出かけるとどれくらい経費がかかりますか?」
経費と言っても、取材ごとでだいぶ違います。岩手に行くのと福島に行くのでは、距離が2倍くらい違うので、ガソリン代だけでもぜんぜん違いますし、宿泊施設も、インターネットカフェで済ませる場合もありますし、ホテルを使う場合もあります。そこで、昨年12月16日〜18日の取材の際にかかった経費をご報告します。
* * * * * * *
[移動(取材場所)]
東京(東北自動車道)→福島県・郡山南インター→二本松→伊達→飯舘村→南相馬市→浪江町→相馬市→宮城県・山元町→石巻市→気仙沼市→岩手県・釜石市→大船渡市→陸前高田市→釜石市→花巻インター(東北自動車道)→東京
合計約1400キロ
[金額]
高速料金 →18400円
ガソリン代→21000円
宿泊費 → 1800円
差し入れ → 2800円
飲食費 → 9600円
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合 計 →53400円
※100円以下は四捨五入。
※「宿泊費」は、インターネットカフェの料金とシャワー使用料。
※「差し入れ」は16日に泊めていただいた取材先へお土産として持って行ったもの。
* * * * * * *
取材経費で大きいのは、「交通費」「宿泊費」「飲食費」です。
ほかにも、雑費がいろいろとかかりますので、この3日間で使ったのは合計で6万円ほどです。
ちなみに、今年になってから、宮城県・石巻市→岩手県・大船渡市→宮古市→釜石市→宮城県・山元町→福島県・南相馬市というルートで、1週間、取材してきましたが、この時は、ガソリン代や高速料金を除いて(出版社の経費だったため)、約5万円使いました。長期出張とは逆に、いわき市や郡山市などは、日帰りか1泊で行く事が多いのですが、その場合は、だいたい2万円くらいの経費になります。
交通費に関しては、僕の場合はほぼ100%が車での移動です。車の場合、3人以上で同行して行くと、負担がグッと軽くなるので、随分と楽になりますが、3人が同じ場所で取材するってことはあまりないので、その点の調整が難しいですね。
以前は、震災に関する色んなテーマで仕事をする事ができたので、取材先をそれほど厳密に絞り込まず、移動する成り行きで取材が成立していました。しかし、最近は、ギャラが先に決定している仕事が激減しているので、以前のように気軽に行く事ができません。僕で言えば、継続取材させてもらっている方々か、あるいは学校・子ども関係の取材先を決めてから取材に行く事が多くなっています。そのため、以前のように、フリーランスの人達と日程を調整して一緒に取材するという機会は減っています。まぁ、「石のスープ」のレギュラーメンバーである村上和巳さんや渋井さんは、お互いに遠慮なく我が侭言いながら同行できますし、他に今でも同行して取材に行っている人達とは、楽しくご一緒させてもらっています。
宿泊費に関しては、人それぞれだと思います。僕の場合は、車で寝る事が全く辛くない(東京にいる時でも、車の中で寝る事はしばしば)ので、基本的には何処でもオッケーです。一人で取材している時は、銭湯や入浴施設を使って、夜中までファミレスで仕事をして、あとは車で寝る事もよくあります。各地域で、人目を気にせず車でゆっくり寝られる場所を見つけてあります(笑)。
よく行く地域では、郡山市、福島市、石巻市などでは、いつもインターネットカフェを利用しています。シャワーも付いていて、一晩で1500〜2000円くらいです。
ホテルに泊まる時は、だいたい5000〜7000円くらいですね。朝食付きビジネスホテルがほとんどですが、地域によっては未だにホテルが満室という地域もあるので、その場合、旅館や民宿も使います。つい先日、石巻市に行ったとき、男3人でモーテルに泊まりました。8時間で9000円というモーテルで、一人3000円ずつ。何処でも寝られる僕はソファーを使い、他の2人が仲良くベッドを使っていました。このモーテルは2回目でしたが、5時間6000円、8時間9000円で、部屋も広く、割りと使いやすいモーテルです。この2年間、モーテルやラブホテルを使う事は何度もありましたが、個人的には、ラブホを利用するよりもインターネットカフェを使う方が好みですが、これは同行者との兼ね合いですね。
また、有り難いことに、取材先で地元の方のお世話になって、ご自宅や仕事場に泊めていただく事もよくあります。避難所や仮設住宅に泊めていただいたりすることもあり、貴重な体験もさせていただいています。
飲食費は、あまりケチらないようにしています。まぁ、どうしてもお金がない事もありますが、できるだけ地元のお店に行ったり、取材させていただいている地元の方々とのお付き合いを優先するようにして、この時ばかりはダイエット中でも気にせず食べる事にしています。ですから、取材から帰ってくると、いつも体重が増えています。さらに、渋井さんの「夜の取材」にお付き合いすると、経費はもっと掛かってしまったりも……。
さて、こうした取材をして、雑誌に原稿を書いて、一体幾らになるのか! それはまた別の機会に……。
■質問募集中!!
「石のスープ」では、読者の皆さんからの質問を募集しています。電子メールで、「●●さんに質問!」と件名に書いて送ってください。いただいた質問の回答は、「石のスープ」の中で発表します。
また、「東北のこの場所が、どうなっているか教えてほしい」「今度の取材先で、●●というお店を通ったら、ぜひグルメレポートを!」なんてご要望もお待ちしています。
東日本大震災と関係ない質問でもどうぞ。本人には直接聞けない内容だとしても、編集部が質問をしてくれるかも知れません。できるだけ質問には答えていきたいと思いますので、どうぞご遠慮なく!
電子メールの送り先は、「石のスープ」編集部宛に
sdp.snmw@gmail.com
渡部真 わたべ・まこと
1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。震災関連では、「3.11絆のメッセージ」(東京書店)、「風化する光と影」(マイウェイ出版)、「さよなら原発〜路上からの革命」(週刊金曜日・増刊号)を編集・執筆。
[Twitter] @craft_box
[ブログ] CRAFT BOX ブログ「節穴の目」
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