フリーザー のコメント

『夢』の字源には二つあるようです.
・草枕から夕闇に目を覆われる姿になる、睡眠の際に見る、夢。こちらが夢々しさ、儚さ、幽かなものに通ずるようです。
・古代の戦いの際に、媚女が敵の睡眠へ殺す呪いを掛ける姿、夢、を。
日本の訓読みに対する『ゆめ』は上の一つ目が強そうです。二つ目が、意志の力で希望に通じるように感じますが、希望の意味合いは江戸時代後期以降に拡まったもので、英語のdreamの訳語からの方が強そうです。

夢々しきものを掴み取るのは、どんな時代や場所でもそれ相応に難しいと私も想います。その世間によって幽(微)かなものは変わりそうです。自身の夢によって呪縛される、洗脳されるくらいの意志がなければ、幽(微)かなものを感じ取る繊細さは得られない、と私は想います。それが傾奇者へ誘い、掴み取ろうと齷齪(あくせく)努力し自然の徴候をより感じ取れるようになった頃には死が近付いている。神は細部に宿る。その微小な中に光り輝く王たる徴(しるし)を求めて、それこそ夢だった。生死が近付くほどに直感が鋭敏になる、生まれる際と死際が一番自然に近く、奇跡を導きやすい、と認識し出すのかと。その意志が世間の異端になれば夢に殺される、志士として、夢に殉じた貴人たる侍として、薨(こう)ずるものになるのかと。志半ばに死ねるのが一番綺麗に観えます、徒花として。良い奴ほど早く死ぬ。死んで初めて一人前。蓋棺事定。自ら独力で立ち上がる人として。自らの精神性に立ち上がる士として。仕事なるは、士たる人の事ふるを。人が動いて初めて働く事になる。人間という人の間に迎合するだけの存在にはなりたくないです。世間が怖い。迎合したら悪になる。

どちらにしろ、自ら示した座標に於ける、世間を超越した姿(特異性)を持つか、多勢による力押しでしか、『夢を叶える』姿を演じることはできないように、私は想います。ただ、多勢の力押しだと『叶える』行為にはなっても、細部には到れないとは想いますが。神にならなければ『楽』の姿を観ることはできない。限界を越えて初めて自由を得る。しかし、夢への経路に乗ることすら世間に邪魔される。世間という何十年と重ねた因果の雨矢の間では、その因果に迎合することが憂いを持った人の優しさであるかのように、人間によって村八分が実行される。因果は論理ではない。現段階で因果の証明が存在しない以上、因果なものに自信を持つことはできない。論理だけを武器に闘う数学しか自信を持つことは無理だ。だからこそ、無理に観える夢を事に割り込もうとしない限り、自由も、楽しさも手に入れることはできない。私は夢を殺すより、せめて夢への道程、夢路にて死にたいです。私は、カシミール効果による奇跡を求めて、夢に殺される道を撰びます。

人の夢は儚い。されど、失い之く程に輝きを増す光かな。
葛藤なき人生に意味はなし。

No.1 125ヶ月前

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