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その朝はいつもと違った。それは母親にとって、たまらなく甘酸っぱく……同時に不思議な切なさを覚える光景だった。
「お父さん、今日は頑張ってね」
「ああ。日向もしっかり勉強するんだぞ」
学校に向かう前、日向はスーツ姿の父親にエールを送った。初めてのことだ。これまでは対局があると聞いても、まるで興味を示さず登校していったのに。
「いいもんだな、こういうの」
「……日向が将棋に興味を持って、嬉しい?」
「そりゃあもちろん。葉子は嬉しくないのか」
「ちょっと急すぎてね……。しかもこんな時期に」
「この大舞台で俺が負けたら、ショックを受けるだろうって?」
無言で頷く。こんな日だというのに、夫よりも子供の心配をしてしまう。
きっと学校でも、友達や先生に話すだろう。今日、僕のお父さんはすごい勝負をしているんだと。期待が大きければ大きいほど、負けたときは……。
「ま、勝てば問題ないわけだ」
山寺はあっさりと言って、いつもの対局日と変わらない様子で出発した。
そう、プロの将棋はそれに尽きる。
勝てばいいのだ。――ああ、なんと難しいことだろう。
対局開始の午前十時が迫り、パソコンを起動した。対局が行われるのは、もちろん最上位の特別対局室。すでに振り駒も済んでおり、山寺の後手と決まっていた。少しでも勝率の高い先手を引きたかったが、こればかりは将棋の神様の気まぐれで決まるものだ。
と、始まってもいないのにコメントが異常に盛り上がっているのに気づいた。
――山寺が灰皿を用意しているのだ。以前は吸っていたが、結婚を機にすっぱりやめたはずの煙草。〈かっけえ〉〈渋いw〉といったコメントが矢継ぎ早に流れる。
「煙草なんて吸っていいの?」
義母がすべての視聴者を代弁するような質問を投げかけた。
「ええ……最近はほとんど見なくなりましたけど、禁止はされていないです」
対局室を禁煙にするべきという声はあるが、煙草の製造会社がスポンサーになっている棋戦もあり、連盟は全面禁煙に踏み切れないらしい。
「行成、なんだか無理してる感じがするわ。焦りの表れじゃないの」
高遠は答えようもなかった。
対局が開始された。先手の豊田がすぐさま角道を開ける。対する山寺は飛車先を突いた。そこから互いに時間を使わず、見慣れた角換わりの局面になっていった。
【図は△2二玉まで】
現在の角換わりは、とりわけ先手の勝率が高いとされている。豊田は先手を引いたなら、この戦法にすると決めていたのだろう。似たりよったりの戦いになるから、角換わりはあまり好きではないと山寺は言っている。しかし好きでなくとも勉強しなくては、プロとしてはやっていけない。まして名人を目指そうというのなら。
山寺は時折、煙草を吸う。か細い白煙が立ち上ると、ニッコ動のコメントは必要以上に盛り上がる。煙草を吸う姿なんて見たくないというコメントもある。こうした反応もすべて承知の上で、山寺は喫煙姿を見せている……。
「相手の子も、いやだろうねえ。まさか、それを狙ってるとか? だって、普通は配慮するでしょ」
「どうでしょう……」
言葉を濁したが、盤外戦を念頭に置いているのは間違いないだろう。
もっとも、こんなことで本当に動揺するようなプロはいない。せいぜいが蚊に刺された程度のもの。山寺もそれをわかっているはず。
それでもあらゆる意味で最善を尽くす。何が何でも名人に挑戦するという気迫を、行動で示しているのだ。
定跡から外れることなく五十手以上が指され、昼食休憩に入った。ずっとパソコンの前に座っていた高遠も席を外そうとして――昼食の用意を忘れていたのに気づいた。
「すみません、カップラーメンでもいいですか」
「ああ、今日くらいは大目に見るよ」
貧相な昼食を終える頃、日向が学校から帰ってきた。ランドセルも置かないままでリビングに駆け込んでくる。
「お父さんは?」
「本格的な戦いは、まだまだよ」
「じゃあ、お昼寝するね! 夜に備えなきゃ」
「え? ちょっと……」
こちらの返事も聞かずに、日向は自分の部屋に急いで戻っていく。
「……葉子さん、本当に夜中まで見せるつもりなの?」
義母に非難めいた視線を向けられ、高遠は言葉に窮した。
明日だって学校があるのだ。あんな小学生の子供を、夜更かしさせていいわけがない。しかし……。
「あそこまで、行成さんを応援したいって思っているんです。今回だけ、許してやってくれませんか」
「しょうがないねえ。でも限界だと思ったら、無理矢理にでも寝かせるからね」
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