午後八時を回り、唐突に変化が訪れた。
「あっ……? 播磨八段が、投了したって!」
ひとりの客の言葉に、ざわめく店内。深夜まで戦うことも多い順位戦だが、この時間帯で投了することは珍しい。紗津姫は急遽、豊田・播磨戦を並べ直した。
「えー。これ、まだ粘れそうな気がするけどなあ」
「プロの将棋って、難しすぎるねえ。神薙さん、どうなの?」
「豊田先生の玉が、固すぎますね……。対して播磨先生の陣は、飛車打ちの隙がいくらでもあって……。粘ろうと思えば粘れそうですが、それはたぶん、播磨先生の棋風ではないのかなと」
「へえ、そんなもんか」
客たちはまだ、あまりの早投げが不可解なようだったが、高遠には理解できた。将棋界には「プロ的には大差」という表現があるが、まさにそんな終局図だった。ここから播磨の玉を詰まそうと思ったら、少なくとも二十、三十手はかかりそう。しかし播磨はもう悟ってしまったのだ。これ以上指しても、惨めになるだけだと。
「むう、残念でしたね」
来是が渋面を作っている。十代の少年らしい、裏表のない顔だった。
「君は、うちの人が挑戦者になってほしいの?」
「えっと、去年の夏の大会で声をかけてもらってから……結構ファンというか。将棋も棒銀が得意っていうじゃないですか。俺、棒銀が一番好きな戦法なんで」
「そう、ありがとうね。でも他力をあてにしても、しょうがないから。本人の頑張りがすべてよ。さ、あなたたちは休憩してちょうだい。神薙さんも一息入れましょう」
「はい、それではまた後ほど」
紗津姫がペコリと頭を下げると、温かい拍手が鳴った。解説者デビューというには、いささかスケールが小さいけれど、高遠は紗津姫のアイドル活動の手助けをできたことが嬉しかった。誇張ではなく、普及に関しては並のプロ棋士百人分の価値がある存在だ。本当に素晴らしい逸材と巡り会えたと、胸が高鳴らずにはいられなかった。
「ところで紗津姫さん、いつまで解説するの? さすがに全局終了までってわけにはいかないでしょ」
「だよな。明日も学校あるし」
「それもあるけど、労働基準法とかに、引っかからない?」
「その点は心配しないで。午後九時には終了させるから」
「ふうん、じゃあ解説会はそれまでなのね」
「ええ、私の解説は」
紗津姫、来是、依恋の三人をバックヤードに引っ込めたが、高遠は休みなしで接客に励んだ。解説の熱気の効果だろう。誰もが景気よくドリンクや軽食をオーダーしてくれる。この調子なら、今日だけで一週間分の売上は上がりそうだ。入口に本日満席の張り紙を出さざるを得なかったが、キャパシティに余裕があれば、もっと売上は伸びていたに違いない。
このカフェの利益は、まだ本業の将棋には届いていない。だが引退して専念すれば、そして今日のように魅力的な企画を打ち出せば、充分に追い越せる。ゆくゆくはもっと広い場所に移転したり、二号店を出したり――幸せな想像が広がっていく。
「高遠先生、バイト雇ったら? めっちゃ大変じゃない」
「そうねえ、真剣に考えないとね」
「神薙さんが店員だったら、毎日でも来るのに!」
「あはは、もう伊達名人に取られちゃったから」
二十分ほどの休憩で、大盤解説が再開した。残り四局、まだ中盤のところもあれば、すでに終盤に差し掛かっているところもある。山寺・田無戦は、前者だった。
田無は山寺の振り飛車に、間違いなく意表を突かれただろうが、そこはタイトル五期の大ベテラン。対振り飛車の経験は、A級棋士の中では一番だ。これといった緩手もなく、互角の勝負が続いていると紗津姫は言う。
しかし、持ち時間はかなり差がついてきた。
「山寺先生、ここまでずっとテンポよく指していますね。もともと長考派というわけではないですけど、本局は終盤にたっぷり時間を残しておきたいという考えが伺えます」
「つーか、時間攻めじゃない?」
客の言葉に、紗津姫はほんの一瞬動きを止めたが、軽く頷いた。
「……なるほど、そういうこともあるかもしれません。これもまた、人間同士の戦いですよね」
時間攻め――自分はさっさと指し、相手にだけ一方的に時間を使わせる。持ち時間というルールがある競技すべてに適用できる戦法だ。最近でもタイトル戦という大舞台で、若手の挑戦者が積極的に時間攻めをして相手の悪手を誘い、奪取に成功したことが話題となった。
この場の全員が、コンピューター将棋を連想しただろう。トップ棋士と互角以上の棋力だけでなく、疲労がない、食事が必要ではない、そして――時間切れに焦ることがない。心がないとは、勝負においてなんという強みだろうか。
しかし棋力以外のことで勝敗が左右され、大逆転のドラマが生まれる。コンピューター将棋の台頭以来、それこそが人間の将棋の面白さだという認識も広まっていた。
「神薙さんは、時間攻めについてどう思うの? 俺はあんまりいいイメージがないんだけども」
その質問に、紗津姫は即答で返した。
「立派な作戦だと思いますよ。相手を間違わせるというのも、将棋のテクニックですから。もっとも、初心者のうちはそれよりも基本を学ぶことが大事だと思います。私の後輩たちには、そう教えてきました」
「いやあ、おかげさまで今では有段者に」
テレテレする来是。さっき具体的な棋力を聞いたら、つい先週に将棋会館道場で三段になれたという。高校入学と同時に始めたということだから、ずぶの初心者からたった一年足らずで、そこまでの実力アップを果たしたのだ。神薙さんは指導者としてもプロに匹敵するかもしれない――高遠はますますこのアイドルが気に入ってしまった。
どの対局も大きな進展はなく、時刻は午後九時を迎えようとしていた。本格的な夜戦に入っても、じっくりした駒運びが続く。これが他の棋戦にはない、順位戦の醍醐味だ。
「神薙さん、今日はここまでね。お疲れさまでした」
「ありがとうございます。とても楽しく解説することができました」
再び送られる拍手に、紗津姫は頬を緩ませる。ここからが面白いのに残念、という声も聞こえてきた。
高遠自身ももったいなく思っているが――その代わりというには恐れ多いサプライズを用意した。
「みなさん、神薙さんの解説はこれで終わりですが、実はもうひとりお呼びしているんです。その方とチェンジするという形で。あ、ちょうどいらっしゃいました」
チャイムとともに開いた入口に目を向ける。颯爽とコートを脱ぎ、洒落たチェック柄のベスト姿を見せるその男は、この場を一気に非現実の空間に塗り替えた。
「こんばんは、伊達清司郎です」
「ええええ? うそお?」
「マジ? マジ?」
ハリケーンのように渦巻く歓声を、伊達名人はまるで意に介さずに掻き分けて、高遠のもとへ歩み寄っていく。
深夜までは解説できない紗津姫の続きをどうするか、最初にオファーしたときに尋ねられた。普通に途中で終わらせると高遠は考えていたが、伊達自らが「じゃあ続きは自分がやりましょう」と申し出た。信じられないような話だったが、それだけ彼は神薙紗津姫という逸材のプロデュースに真剣なのだろう。
「本当なら将棋会館に呼ばれるような立場なのに、ありがとうございます」
「はは、こちらのほうが面白そうだったので。……春張くんと碧山さんだったね。どうだった、先輩の仕事ぶりは」
「あ、ええ、それはもう」
「……名人の期待どおりの、いい解説だったと思いますわ」
あらかじめ知らせてはいなかったのだろう。紗津姫は驚いている後輩コンビを見て、作戦成功とばかりに笑っていた。
「では、さっそく始めましょうか。さすがA級、どの将棋も面白そうです」
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