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「面白い将棋とは何か、きっと大熊さんは繰り返し考えてきたと思うんですね」
昼食休憩後の解説担当は、伊達と川口のペア。美男美女は立つだけで絵になるが、長い考慮時間であってもしっかり間を持たすトーク力は、さすがプロの仕事といえるものだった。
「伊達先生……それは、大熊五段のこの作戦が、面白いかどうかということでしょうか」
「すでにご説明したとおり、これは松平前会長の作戦と同じですね。大熊さんは普通にやっては勝てないと考えて、人間同士では絶対にやらない指し方をした。で、そういうのは面白くないという人が、一定以上は確実にいるわけです。当時もいましたし、きっとこの会場の中にも、おられるでしょう。もちろん、どう思おうと個人の自由なわけですが」
「では、伊達先生は……?」
観客たちは固唾を飲んで、希代の名人の言葉を待つ。彼が見せたのは――不敵な笑みだった。
「これは、途方もなく面白いですよ。何しろ前会長の、数年越しの弔い合戦のようなものではないですか」
「な、なるほど!」
「大熊さんとしては単に、少しでも勝率が上がる作戦を選んだだけで、特別意識はしていないかもしれません。しかし私は、とても素晴らしいと断言したい。ロマンにあふれています。将棋の内容と関係がないと言われるかもしれませんが、将棋はそれを指す人間の姿そのものが面白いんです。……ソフト同士の作る棋譜も、非常にいいものです。この前の電将トーナメントも、誰もが唸るハイレベルだった。しかしそれとは別に、人間ならではの味というものがある。こればかりは、機械では及ばないところだと思いますね」
「この電将戦で、将棋とはそもそも何かという問題提起がされていますよね。でも伊達先生のお言葉で、自分の中でも答えが見つかった気がします!」
「それは何よりです。どうでしょう、アンケートを採ってみますか? 中継をご覧の方々、こういう将棋も面白いかどうか」
即座にユーザーアンケートを行えるのが、ニッコリ動画のいいところである。面白い、面白くないの二択。結果は、80パーセント以上が面白いという回答だった。伊達がああ言ったから……というのはあるかもしれないが、上々の結果に来是は満面の笑みを浮かべた。
「みんなわかってるな。依恋も面白いと思うだろ?」
「まあ、普通の将棋じゃないわよね」
「普通じゃない、それだけで価値があるってもんだ!」
局面はまだこれといった動きを見せない。休憩後は大熊も少しずつ時間を使うようになった。SHAKEはそれ以上に考えている……とはいえ、相変わらず飛車をグルグル動かしているだけだ。もちろん少しでも隙を見せれば即座に襲いかかるつもりだろうが、大熊も腰をどっしり落として、今は専守防衛に務めている。
来是は第一回の電将戦のことは詳しく知らないが、すでに説明はあった。端歩の位置関係を別にすれば、まったくと言っていいほど同一の展開らしい。今はまだ、嵐の前の静けさ。いかに開戦するのか、楽しみのような、怖いような……。
「では、ここで特別ゲストをお呼びいたしましょう! みなさん、誰だと思いますか~?」
と、川口が陽気な声でお客たちに呼びかける。
ついにきた。大熊の将棋に夢中になってはいたが、もちろん彼女のことを忘れたりはしていない。今日ここに来たのは、彼女の晴れ姿を見るためでもあるのだ――。
「神薙紗津姫さんです! どうぞこちらへ」
ひときわ大きな拍手に迎えられ、ステージに現れる水色のワンピース姿。離れていても鮮烈な香りを感じられるような、見事な大人の装い。来是は叫びたいのを必死に堪え、誰よりも大きく手を叩いた。
「ご存じの方もだいぶ増えてきたと思うのですが、神薙さんはアマ女王として、そして伊達名人プロデュースの将棋アイドルとして活躍されています。私も昨年のクリスマスフェスタで、ご一緒しました!」
「はい、とても素晴らしいイベントでした。棋士の方々がサンタ帽をかぶるなんて、他では見られませんよね」
「っていうかですね……もうなんかいろいろ、負けました!」
さっそくディスプレイ全面に〈謎の投了www〉〈胸囲の格差社会www〉などと草が生える。時には自虐で場を盛り上げることも、プロに求められるスキルなのだった。
「さて神薙さん、この局面の感想をお聞きしたいですが」
伊達が尋ねる。あらかじめその問いを想定していたかのように、紗津姫はよどみなく答えを口にした。
「私は――とても自由な将棋だと思いました」
「自由、ですか」
「初手端歩からの玉上がり、少なくとも人間同士ではあり得ない作戦……みなさんそう感じていると思います。しかし本来、将棋はどんな風に指したっていいはずですよね。プロの方々は、何より勝利を求められますから、少しでも勝てる作戦を選ぶのは当然のことです。でも、それはある意味、自由を奪われているのでは……と思ったりもするんです」
「ふむ、アマチュアならではの視点ですね。そんな神薙さんから見ても、この将棋は自由だと」
「はい。大熊先生は今、プロの常識という束縛から抜け出した戦いをされている。それが今回、一番に思ったことです。コンピューターという好敵手を得たからこその、逆転現象であるかもしれませんね」
「な、なんか私よりもプロっぽくないですか?」
川口の再びの自虐コメントに皆笑いつつも、紗津姫の発言に頷いているようだった。
プロは自由を奪われている。思ってはいても、プロ本人の前で口にするのは勇気のいることだ。なのにあんなにも堂々と自分の意見を言えるなんて――来是はもう何度目かわからないほど、彼女に惚れ直していた。
「勝利が求められるプロは、おのずと最先端の研究に比重を置きがちですが……自由であるべきというのは、まったくそのとおり。思えばコンピューターも、プロが生み出した定跡を知ってはいても、プロの常識なんて概念は持っていない。いかに常識を破るか、これは私にとっても、近頃の大きなテーマなんですよ」
「コンピューターの指した手を参考にするプロも、もう珍しくありませんよね」
「人間として、悔しい気持ちはありますがね。でも本当にいい手を指すんだからしょうがない」
ただの将棋ファンでは、伊達の前に立っただけで萎縮して、ろくに口も動かないだろう。実物の神薙紗津姫を見たのは初めてという人がほとんどだろうが、その堂々たるたたずまいは、強烈な印象を残しているはずだった。依恋もすっかり感心していた。
「紗津姫さん、もうすっかりプロのアイドルね」
「ああ、本当に」
話題をさまざまに変えて、充実したトークは続いた。
というよりも、トークをするしか他になかった。
戦いが――始まらない。
「これはもしかして――」
伊達が何かを言いかけて、やめる。
場の空気も、少しずつ妙なものに変質していく……。
「え、ええと、そろそろ私たちは休憩に入りたいと思います。名残惜しいですが、神薙さんもここまでということで」
「……あ、はい。ありがとうございました」
「神薙さんとはいろいろと女同士の会話をしたいです。伊達先生とばかりしゃべってるんですもん!」
「ふふ、ぜひお願いします」
川口はまるで、空気が悪くならないように必死なようだった。
そして来是は見逃さなかった。ほんの一瞬、紗津姫が不安そうな顔をしていたのを。
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