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「ここは、こうタダ捨てする手があったな。これで詰めろ逃れの詰めろになる」
「あ……なるほど」
「一分将棋じゃ、プロでもなかなか気づけないだろう。そう落ち込むことはない」
暗に、自分は一分将棋でも気づけると、このレベルまで上がってこいと言っている。
大和は今、伊達清司郎の自宅を訪れている。多忙な名人だが、彼女が三段リーグに入ってからは、できるだけ時間を作って指導を行っているのだ。女性の力で今後の将棋界を盛り上げたいと考えている伊達にとっては、ごく自然な発想だった。
「まあ、気持ちを切り替えることだ。初参加で勝ち越しは立派なものだよ」
「一期抜けの清にぃに言われても、慰めにならない」
過酷で知られる三段リーグだが、初参加でいきなりプロ入りを決めた者も何人かいる。伊達はそのうちのひとりだった。しかも十六勝二敗という、過去最高タイの成績で。その後もトントン拍子で順位戦を勝ち上がり、若くして名人の座を勝ち取った。
――才能が違いすぎる。
天才ばかりが集まる将棋界においても、大和が心底そう思うのは、この兄弟子だけだった。まさに将棋の神に愛された、不世出の名人。
兄妹弟子として、これまで何度も練習対局を行ってきたが、勝てたことは数えるほどしかない。その勝てた将棋にしても、伊達が実験的な手を試して、上手く咎めることができたケースがほとんど。彼が本気で負けない将棋を指したら、まず勝ち目はなかった。
だが、最初から負ける気でいるようでは、プロ棋士の資格などない。
大和には、奨励会に編入したときからひそかな目標があった。公式戦で伊達に勝利することだ。圧倒的な才能の違いがあったとしても、いつか叶うと信じて毎日盤に向かってきた。
しかし――思いもよらないことで、その目標を見失うことになりかねない。
「私は清にぃとプロの舞台で戦いたい。そして勝ちたい」
「ほう、いい目標だ」
「だからそれまで……引退しないでほしい」
「それは、名人戦の挑戦者が誰になるか次第だな。山寺八段が今のところトップだが……正直、あの人には負ける気はしない。豊田くんが上がってきたら、かなり警戒しないといけないが」
「じゃあ、山寺さんを応援する」
名人戦で敗北したら即引退――あの衝撃的な表明からおよそ半年。名人挑戦者を決めるA級順位戦もいよいよ大詰めで、かつてないほどファンの注目は高まっていた。伊達名人を引退に追い込むかもしれない、歴史的な棋士になるのは誰かと。
大和はそんな盛り上がりを冷ややかな目で見ていた。力不足で奨励会を抜けられないのなら、まだ諦めもつく。しかし自分のこととはまったく無関係に、伊達に挑戦する機会が永遠に失われてしまうかもしれない。
プロとしてやれることはやってしまった。引退して普及活動に重点を置きたい――その考えは理解しているが、まだプロの舞台にすら立てていない大和は、同時に複雑な感情が湧き上がるのを抑えきれない。
「あのおっぱいちゃんが憎い」
「神薙さんのことか? いきなり何を言い出すんだ」
「だって、あの子のプロデュースに力を入れたいから、引退を決意したんでしょ」
「はて、そうだと言った覚えはないが」
「ごまかさなくていい。なんとなくわかるから」
「まあ、雲雀がそう思いたいなら、思えばいいさ」
アマ女王の神薙紗津姫を、将棋アイドルとしてプロデュースする。今後の普及活動の一環であると伊達は内外に説明してきたが、一環どころではなくメインに違いないと大和は睨んでいる。同じ見方をする将棋ファンも少なくなかった。
神薙は確かに逸材だ。今は学業優先らしいが、雑誌やテレビで彼女を見る機会はずいぶん増えた。あれだけのルックスを誇り、しかも将棋が強い。彼女の影響で将棋をはじめたという声も、ちらほら聞いている。そこらのプロ棋士の百人分の働きをしているのは、疑いようがなかった。認めるしかない。
しかし、感情は別である。
「おっぱいちゃんを、呼ぶことはできる?」
「できるが、なんでまた」
「ちょっと叩き潰して、鬱憤を晴らしたい」
「彼女にどんな気持ちがあるのか知らないが、効果は薄いと思うぞ。あの子、コテンパンに負かされたところで、お前の将棋に感服するだけだ」
「……じゃあ、叩き潰すんじゃなくて揉み潰す」
「やめときなさい。大人げない」
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