来是は気を取り直して、紗津姫との指導対局に挑む。大会で活躍したことが評価され、今日から飛車落ちで指すことになった。
すぐにでも角落ちに進んでやる。そう発奮したが……中盤で凡ミスを連発し、いいところなく負かされてしまった。
「この歩打ちは簡単な罠だったんですが、見抜けませんでしたか」
「むう……なんでわからなかったんだろう」
「集中できてないんじゃないの、来是。まだ夏休み気分?」
一番の原因にそんなことを言われては、ますます気力が萎えてしまう。
依恋とのいざこざは忘れようと努めていたが、そう心がけること自体が集中力の乱れに繋がっていた。
こんなことではこの先、とても棋力の向上は望めない――。
「次、あたしね。あたしも飛車落ちでいいでしょ?」
「ええ、もうそのくらいの力はありますよ」
「それじゃ春張くんは私とやりましょ!」
「ああ……」
金子との対局は、逆に来是が飛車を落とした。しかし金子の差し手は実に伸びやか、全軍前進。その勢いに来是は終始押されて、またもいいところなく敗北した。
「おお、我ながら会心譜! 次からは角落ちでいいですか?」
「……そうだな。金子さんも強くなったな」
「えへへ。実は夏休み、おじいちゃんと毎日指してましたからね。のーんびりですけど、腕を上げてますよ私も」
ここで依恋と紗津姫の対局も終わった。ギリギリのところで依恋が勝ちを収めたようだ。
「素晴らしく踏み込みがよかったですね。こちらが見ていて惚れ惚れするくらい。何かいいことでもありましたか?」
「ふふん、まあね」
パチンとこちらにウィンクする依恋。こっちの気も知らないで、と毒づきたくなった。
「ところで女流アマ名人といえば、あいつはどうしたの」
「摩子ちゃんですか? もうプロになることは内定してますよ。連盟のサイトで研修会の成績表が見られるんですけど、いまだ負けなしです」
女流棋士養成機関である研修会は、AクラスからFクラスまで分かれている。プロの女流棋士は3級から始まるが、その資格を得るにはC1クラスに昇級しなくてはならない。出水はC2クラスで入会したが、夏休みの間に無傷の連勝を重ねて悠々と昇級していた。もともとC2程度で収まる棋力ではなかったのだ。
ただし、入会後に四十八局の対局をこなさなければならない規定があるので、本格デビューは来年の春以降とみられている。
「将棋界、いろいろ面白くなりそうです。……名人が本当にあんな発表をしたのは、少し残念でしたが」
「いやあ、あれは驚きました。テレビも新聞も、一斉に取り上げましたよね。おじいちゃんは潔いって感心してましたけど」
来是は紗津姫の横顔を覗いた。陰になりそうなほどの憂いを帯びていた。
――今後、名人の座から陥落したら引退する。伊達清司郎名人が記者会見をセッティングし、そんな爆弾発言をしたのはつい先週のことだ。
当然ながら反響はすさまじかった。将棋愛好家というコメンテーターたちは、揃ってその宣言を否定的に捉え、再考を促していた。何しろまだ三十歳と若く、これからもさらなる活躍が期待できる希代の名人。しかも芸能人並みの甘いルックスを持ち、女性ファンも多い将棋界のプリンスである。彼の引退による損失は計り知れない。
ただ金子の祖父のように、潔いと受け止める将棋ファンも少なからずいるようだ。ずっと昔には、人気絶頂期に引退して伝説となったアイドルもいる。完全に衰えてしまわないうちに身を引くというのも、ひとつの美学には違いなかった。
「……ん? 今の先輩の口ぶり、なんか変じゃなかったですか? まるで事前にそのことを知っていたような」
「あら、鋭いですね金子さん」
紗津姫は苦笑いした。彼女にしては珍しいうっかりだったようだ。
「……そうですね、私たちだけの秘密ということで、お話ししておきましょうか。あの日、私が名人に打ち明けられたことを」
「いいんですか? 先輩」
「ええ、依恋ちゃんや金子さんにも意見を聞きたいですし」
「将棋アイドルってやつでしょ? あたしはもう来是から聞いて知ってるんだけど」
「ちょ、私だけ仲間はずれですか? 何ですか将棋アイドルって!」
紗津姫は順序立てて語った。名人宅に招かれたこと、彼がすでに引退を考えていたこと、引退後は将棋の普及に力を注ぎたいこと、将棋アイドルのプロデュースを企画しており、その第一号に神薙紗津姫を指名したこと……。
「ははあ、そんなことがあったんですか。っていうか、私たちの分のサインももらってきてくださいよ!」
「そっちかい!」
「またお会いする機会があれば、もらってきてあげますよ。……それで、夏休みの間ずっと考えていたんですけど、まだ悩んでいるんです。本当に私にそんな大それたことができるのか」
「別に悩むことないでしょ。やればいいじゃない。あたしが代わりたいくらいよ!」
「そうですよー。将棋の普及に一役買えるとなれば、先輩にとっては天職じゃないですか? 私も全面的に賛成します!」
「……春張くんも?」
「先輩にしかできないことだっていう考えは、最初に聞いたときから変わってません。その、アイドルったって別に水着になるわけじゃないんだし」
「いやいや、このおっぱいは下手に水着になるよりエロいですよ!」
などとからかわれても、紗津姫は怒ったりしない。この穏やかな性格は、日本文化たる将棋の普及を担うのに誰よりふさわしそうだった。
だが、今の来是は将棋アイドルどころではない。
伊達名人の紗津姫への愛の告白。これが依恋のことと並んで、来是を延々と悩ませている。
紗津姫はあの場では、はっきりと返事をしなかった。しかし確実にその心は揺れ動いているはずだ。
自分と同じくらい将棋が好きで、自分よりも将棋が強い人。紗津姫が掲げる恋人の条件。伊達名人以上に、その条件に当てはまる人はいない。
別にそれはいい。自分がどれだけ腕を上げたところで、名人の足下にも及ばないことはわかっている。将棋アイドルとしてプロデュースしたいと言いながらアプローチを仕掛けるのも公私混同のようだが、公私ともに一緒にいたいほど紗津姫が魅力的というだけの話だ。非難する気にはならない。
不安なのは、ただ一点。血の滲む努力の果てに紗津姫と肩を並べることができたとしても。
「私は伊達さんについていきます。だから春張くんは依恋ちゃんと――」
こんなことを言われてしまわないか。考えられるかぎり、最悪のケースだった。
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