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 神社を出て右手に進むと、やがてその建物は見えてきた。
 複数のチームが独自の運営をしている野球やサッカーと違い、将棋の世界は公益社団法人日本将棋連盟という組織がすべてを取り仕切っている。近年、一部の女流棋士が独立して分離したが、依然として将棋連盟は棋界の中心であり続けている。
 その将棋連盟の本部こそが将棋会館。プロ棋士の公式対局が行われるのはもちろん、プロ棋士の卵たちがここで切磋琢磨しており、関西から遠征してきた棋士のための宿泊室もある。……紗津姫から聞かされる概要を、来是は一言も漏らさず聞いていた。
「で、将棋好きの人たちがいつも集まってくると」
「都内のいろんなところに将棋道場がありますけど、やっぱり初心者はここが一番いいと思います」
 入口を通ると、すぐそこがショップになっている。将棋関連の書籍やグッズがずらっと並べられており、見ているだけで楽しそうだった。
「へえ、いろいろありますね」
 来是は盤と駒を見ようとショーケースに近づいていく。幼い頃自宅にあったものは、いつの間にか捨てられていたので、安いものなら買ってもいいかなと思っていた。
「昔あったのはマグネット式だったんだよな。あれが一番手頃かな」
「うわ、これすっごい高い!」
 驚嘆する依恋の視線の先を見て、来是も鳥みたいな声を上げた。
「な、ななじゅうまんえん?」
 やたら達者な書体の駒だ。見間違いではなく、値札には六桁の数字が書かれている。
 続いて盤も見てみるが、なんと百五十万円もするものがあった。
「盤も駒も、いいものは職人の手作りだからな。どうしてもそれくらいはするよ」
「つーか、こんな高いの買う人いるんです?」
「パパにおねだりすれば、買ってもらえるかしら。やっぱり道具は高くてもいいものを揃えないとね」
 こういうとき、お金持ちは素直にうらやましい。
「ちなみに昔の名人が、将棋が上手くなりたければいい盤と駒を使いなさいと言ったそうですよ」
「それじゃあ俺は上手くなれないんですか?」
「大丈夫ですよ。私も普通の安物を使っていますから。その名人も、半分は冗談で言ったのではないかと」
 安心したところで、いよいよ道場がある二階へ移動する。ちなみに三階以上は関係者以外は入れない。
「あら、神薙さん!」
 受付に座っている女性職員が、ずいぶん馴れ馴れしく声をかけた。単に顔を覚えられているというよりは、お得意様が来てくれたときのような反応。
「こんにちは。お世話になります」
「神薙さんだって?」
 すると他の客たちが、にわかにざわめきだした。
「おお、本当に神薙アマ女王だ」
「くうう、ひとつ指導してもらいたいなあ!」
 たちまち、彼女の周りに人だかりができた。なんとサインをねだる人もいる。紗津姫は苦笑いして、丁重にお断りしていた。
「すげえ……。先輩って人気者だ」
「な、なんでこんなに?」
 依恋は嫉妬丸出しだった。
「アマチュアの間じゃ、神薙はちょっとしたアイドルだよ。あのとおりの美人だし」
 関根はそんな後輩が誇らしいようだった。
 そういえば、と思い出したことがあった。
 紗津姫は関根と付き合っているのではないかという依恋の憶測。
 そんなまさかと否定したいが、はっきりさせておくに越したことはない。機会を見て聞かなければ。
「春張くん、碧山さん。受付を済ませましょう」
 やっと開放された紗津姫から声がかかる。料金を支払うと、手合い係――道場の運営を担当する職員が聞いた。
「棋力はどれほどですか?」
「えーと、まるで初心者です」
「まあ、あたしも」
 この将棋会館に限らず、将棋道場は手合いカードというものを使用する。そこに記入された棋力に基づき、手合い係が対局の組み合わせを決めるのだ。もちろん棋力差がある場合は駒落ちで行われる。
 来是と依恋は初めてなので、まずはここでの棋力を決めるところから始めることになる。手合いカードに名前を書いて渡すと、しばらく待つことになった。
「先輩たちは、どれくらいなんですか?」
「俺は3級。ここんとこずっと足踏みしているなあ」
「私は五段です。なかなか六段に上がれないんですよね」
 ここでは15級から六段まであると説明される。上から二番目だから、相当すごいということだけはわかった。
「神薙先輩でも一番上にはなれてないんですか」
「はい、だからまだまだ勉強が必要です」
 来是は道場を見渡す。単に趣味でやっている人、勉強熱心に取り組んでいる人、様々いるようだ。
「にしても、わりと子供が多いですね」
「最近、子供に将棋をやらせる親が多いそうですよ。礼儀を学べるとかで。本気でプロを目指している子だっていると思います」
 すでに定年を迎えたであろうおじいさんと、あどけない小学生が真剣な顔で向かい合っている。とても不思議な光景に思えた。
「そう、将棋ってのは大人も子供も、男も女も関係ない」
 関根がやたらニヤニヤしている。そして来是の首に腕を回して、内緒話をするように声を潜める。
「いいか? ここではあんな子供たちとやり合うことが当たり前なんだ」
「そうみたいですね」
「つまりだ。女子小学生ともやれる」
「はあ」
「そんなロリッ子を思いきり負かして優越感に浸れる。時には思いきり負かされて潔く頭を垂れるんだ。こんな幸せがあるか?」
 この人はいったい何を言っているのだろうか。
 ……少なくとも言えることは、紗津姫との仲を邪推するのは無意味であろう、ということだった。
「関根三吉さーん。城崎未来(きざき・みらい)ちゃーん」
 最初に呼ばれたのは関根だった。相手は小学校中学年あたりの女の子。くりくりした丸い瞳が可愛らしかった。
「うっひょー」
 超嬉しそうな関根である。
「おお、君も3級か! よろしくな」
「うん、よろしくー」
 ふたりは空いている席に向かう。
「あの子も3級……あんな子供が、俺より全然強いんだな」
「頑張りましょうね、春張くんも碧山さんも」
「……すぐにのし上がってやるわよ」
 続いて来是、依恋、紗津姫も対局が組まれた。懸念は解消されたことだし、自分のことに集中しなければならない。
 来是の相手は自分と同じくらいの年頃の男子だった。4級で二枚落ち。手合割表を見ると、二枚落ちは6~7級差。これに勝てればだいたい10級の力があることになる。
 ここからがスタートだ。来是は気合いを入れた。