混沌としたウクライナ情勢で世界が揺れ動きエネルギー価格が高騰する中で経済の先行きはますます不透明な状況です。
ロシアにも言い分はある。ウクライナが先に手を出していた、などと聞くとあれほど一般市民に向け容赦のない攻撃を重ねているロシアの軍事進攻も仕方のないことなのか。
かつて日本が軍隊同士の戦い(本来の戦争)から逸脱したような米軍から一般市民への攻撃を受けたことを思い起すとメディアの報道が真実だとすれば現在のウクライナの一般市民が犠牲になっていることに目が向き日本がウクライナを支援する立ち位置に立つこともやむを得ないことになる。しかも第2次世界大戦終結後のロシアの北方領土への進攻など日本からしたらあいつらとんでもやつらだ、と言いたくもなる。
そうした国際情勢の中で今回は改めて株式会社について考えてみたい。
わが恩師でもう90歳にもなられる同志社大学名誉教授の杉江雅彦先生が書かれた証券に関する12章を久々に手にする機会があった。先生が欧州に留学されてオランダの地に訪れた際の印象や社会情勢などを記されているとても読みやすい証券に関する入門書と言える。
株式会社という組織がいつ頃世界で誕生したのかはこの本を読むとすぐに理解できる。皆さんの株式投資の原点はこの世界で初めて生まれたオランダの東インド会社に端を発している。
株式発祥の地であるオランダのアムステルダムが証券論を研究テーマとする杉江先生の旅先に選ばれたのも無理はない。
私もかつてバブル崩壊後の約半年間の貴重な期間を英国で過ごし、たまたまそこで現在、幸福実現党で参院選に立候補されている及川幸久氏とも面識をもったことは今でも思い出に残っている。彼はロンドンのシティと呼ばれる金融街の中にある有力な投資顧問会社で仕事をしていた。
(及川さんの話はまた改めての機会にしたい。)
その世界の金融市場の中核を担うシティを有す英国は欧州の中で最初から最強の国家として君臨していたのではなく意外にもオランダが欧州の中では16世紀末からの100年間最強の経済大国として発展していたというところから思いをめぐらすことにしよう。
この本の始まりは1968年の4月。その当時まだ若かった杉江先生はヨーロッパへの留学中のイースター休暇を利用して欧州に主要都市をめぐり、主に証券取引所を見学して回る企画をたてたとの記されている。
そういえば杉江ゼミの必須行事の一つが証券取引所見学ではなかっただろうか。総勢1000名のゼミOBのイベントが国内外の証券取引所に足を運ぶというもの。国内の取引所見学で甘んじていた私と違い、多くのゼミ生がNY証券取引所に足を運んだとの話であるから取引所めぐりを思いついた杉江先生の門下生が取引所に自然に足を運んでも不思議ではないだろう。
話を元に戻そう。
1931年生まれの今年91歳になる杉江先生は港町、神戸の出身。先生がお酒が好きだったせいもあり酒に縁の深いゼミでもあり、1000名のゼミ生の多くは学問にいそしむというよりは先輩たちとともに酒を酌み交わすことが先んじていたと言える。お酒とともにあるのが食やグルメであり、食通の先生がヨーロッパ各地で様々な食に触れたというのは想像に難くない。
港湾都市オランダで先生は何を食したのだろうか?
運河めぐりの観光船に乗ってワインはもちろん、肉料理に舌鼓でも打たれたのか、アムステルダムで乗られた観光船で観光ガイド嬢が建物を指さして世界ではじめてできた証券取引所だと説明したのでそれは違うとつぶやいたとされる下りが印象的できっとこの旅に中で先生の脳裏から離れられないシーンだったのだろう。
さて当時、オランダの港町アムステルダムは1585年以降、急速な発展を遂げることになるが、港町だけに今、話題のバルト海沿岸と北西ヨーロッパを結んで穀物や木材、塩、鰊(にしん)などの海外貿易が盛んだった。
この街には南方から有力な商人や金融家たちが大挙して集まり一大商業都市を形成していたのだ。
アムステルダムの発展はそれと入れ替えで衰退したアントワープという商業都市の話も出てくるが、この街を支配していたのがスペインだったという話。アントワープの商人や市民が宗教改革の影響でプロテスタントに改宗。その時にスペインはカトリックの守護者をもって任じるスペイン王・フェリペ2世が本国から大軍を派遣して改宗者の弾圧を徹底的に行った。
1585年にはアントワープが陥落。スペイン軍に占領され、経済の機能は麻痺。今起きているウクライナと同様の軍事的な出来事が起きたとの話で、結果としてこの地で改宗した新教徒や外国商人たちはすべて国外に亡命することを余儀なくされ、その多くはその当時、相当数の船が出入りできる良港を備えていた商業都市アムステルダムに安住の地を求めた。
アムステルダムの住人の多くプロテスタントに改宗した商人で、彼らが重視する都市の自治権をアムステルダムは既に獲得していたことも背景になっていると杉江先生は指摘する。
スペインのフェリペ2世に抵抗した北部ネーデルランド(オランダ)の反乱軍(今のウクライナみたいなものか?)はスペインから独立し1585年には事実上、オランダ共和国を樹立した。
この結果アムステルダムがアントワープからの移住者を手に入れ、ニューアントワープの観を呈するようになったと。今でいう難民のイメージはあまり良くないがまさに戦いから逃れた難民が新たな商業都市を形成したのである。
話はいささか長くなってしまった。
アムステルダムという良港をもつオランダだが、その当時既に世界の海に乗り出し欧州の食に不可欠だったアジアの香辛料などを獲得していたスペインやポルトガルに対しアジアに目を向けていなかったが、これらの国々に100年遅れでアジアに目を向けることになる。
その結果、できたのがアジアとの貿易を営むために生まれたオランダの東インド会社ということになる。これは今でいう日本の総合商社のようなイメージがあるが、船をつかって物資を輸送し世界貿易を営む会社。いわば海運会社と総合商社が組み合わさったような組織でしょうか。
リスクを伴う貿易商社を運営するための形態が株式会社のルーツ。
オランダと言えば風車とチューリップ、柔道のヘーシンクなどを思い浮かべる程度ですが、オランダがアジアの中でも日本との交流が盛んになったのはスペインとオランダが戦争状態となりオランダ自らがアジアに目を向けざるを得なくなる中で起きた歴史上の変化だったということになる。
(次号に続く)
(炎)
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