■焼き尽くされた名古屋。食なく家なし。祖父母、鹿十朗ととみ江の苦労
貧しい農村では木の芽や草の葉をまぜた薄い粥で飢えをしのぐしかなかった。
東北出身の詩人、宮沢賢治は開花しない稲を前に、
なすすべを知らない農民の姿を「サムサノナツハオロオロアルキ」とうたった。
農民はヒエに期待をしたが、5分しか収穫がなかった。アワも冷害で大減収。
じゃがいもは全滅という有様で乳幼児は生まれてもただ、死ぬしかなかった。
後を絶たない娘の身売りが重大な社会問題になった。
飢餓を逃れるために、東北地方から大量の求職者が都会へと流れていく。
娼婦に売られるのを間逃れ女工に就職できた場合も労働条件は劣悪であった。
1935年当時、ビール一本は大瓶で37銭。
国産の電気冷蔵庫が登場した。
掃除機や冷蔵庫は高額で600円~800円であった。
掃除機の普及はわずか6000台程度、
洗濯機は3000台程度の普及であった。
冷蔵庫は12000台の普及であり、サラリーマンには高値の花であった。
やがて太平洋戦争に突入。
「欲しがりません勝つまでは」と精神論で頑張ったが、
結局、連合軍との圧倒的な軍事力の差は如何ともし難く、日本は敗れる。
サイパン島を失ってからは、日本の本土にB29の大量爆撃が始まった。
それでも日本政府は戦争を止めなかった。
1945年3月10日午前0時7分、東京大空襲。
およそ10万人の市民が犠牲になった。
猛火に追われて川に飛び込んだ人々を熱風が襲った。
ほとんどが酸欠死、窒息死、あるいは溺死、凍死であった。
せめて、卒業式だけは東京でと3月9日に
台東区柳北国民学校の6年生が集団疎開先から帰京。
悲劇としかいいようがない。
帰省初夜に多くの学童が犠牲となった。
軍事工場が集積していた名古屋は合計38回もの爆撃を受けた。
三菱重工の戦闘機生産工場は徹底的に狙われた。
焼夷弾ではなく、爆弾による徹底破壊であった。
6月26日の名古屋大空襲はB29が350機来襲。
名古屋市は全市の7割を失った。
隣組で市民はバケツリレーで対抗しようとしたが、
無理な話であった。
尾張名古屋は城で持つといわれた名古屋城の金の鯱鉾は熱で溶け落ち、
城は石垣と土台を残すだけで落城した。
1945年までには名古屋は大空襲で焼け野原になり、
家も焼けてしまった。
当時10才だった登(わたしの父)は家が燃える様子を覚えているという。
B2917500機の恐るべき破壊により、
日本の主要66都市で合計4400キロ平方メートルが焼失した。
それでも政府は戦争を止めず、
「家は焼けても心は焼けず」と戦争を継続した。
家が焼かれてから、鹿十朗一家は、
とみ江の妹きくゑの家に一週間ほど滞在した。
その後、鹿十朗は、アルプスに一家を連れて行った。
仕事のオファーがあったからだ。
日本はそのとき、材料不足で、
金属製品は、もはや生産できる状況ではなかった。
つまり、新たに戦闘機が作れない。戦える状況ではなかった。
それにも関わらず、軍部は木材ならあるだろうと、
木製グライダーをつくり、
即席のグライダーで米軍と戦おうとしていた。
飛行訓練はアルプスで行われていた。
鹿十朗は、グライダー向けの木材を切り出す、
臨時の木こりとして、アルプスで仕事についた。
家は焼かれた。
とみ江は妹と喫茶店を切り盛りしていたが、
もはや、コーヒー豆の輸入が途絶え、
営業できる状況ではなかった。
そこで、一家はアルプスに移ることになった。
一家は、夏の間は、木々に布を垂らすだけの家のようなものに暮らした。
そして、1945年8月の終戦を迎える。
アルプスで冬を越すことはできないと判断し、
一家は、秋に名古屋に戻ってきた。
鹿十朗一家はなんとか生き延びた。
戦争直後は食なく家なきインフレ時代であった。
食糧難は戦時中にまして深刻化した。
1946年5月の「米よこせ」食糧メーデーで
皇居前に25万人の労働者が集結した。
首相官邸へデモ行進を行った。
終戦の年の米作は不作で平年の半分以下であった。
名古屋でも食糧の遅配、欠配が続いた。
「日本1000万人餓死説」が流れた。
栄養失調で亡くなる人が続出した。
そんな中で、鹿十朗は田舎まで出向いて、
野菜を買い出しにいき、
焼け野原の名古屋で路面で八百屋を行った。
子どもたちも野菜売りを手伝った。
その後、朝鮮戦争特需などにより、日本経済は持ち直した。
日本経済は、60年代の高度成長期に突入する。
鹿十朗一家は、食堂を名古屋市黒川で営むことになった。
食堂は山本屋食堂といった。
食堂経営は、順調であった。うどんが儲かった。
一方、ご飯ものは儲からなかったらしい。
出前が増えていった。
警察がお得意様に。その後、役所がお得意様になった。
出前は、わたしの父である登の仕事であった。
鹿十朗ととみ江夫妻は食堂を営みつつ、4人の子を育てた。
子どもも商売を手伝うのが当たり前の時代であった。
(つづく)
日本株ファンドマネージャ
山本 潤
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