岡田斗司夫プレミアムブロマガ 2017/07/05

おはよう! 岡田斗司夫です。

今回は、2017/06/18配信「歴代アニメベスト10&ゲスト:佐藤ダイン『僕に彼女が出来るまで』」の内容をご紹介します。
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2017/06/18の内容一覧

アニメを芸術として語ることの問題

 「アニメベスト10を選ぶ」って企画をメジャーどころがやる場合、どうしても「芸術」として語っちゃうんだよね。

 この芸術として語る時の問題点を説明するためには、「芸術とは何か?」っていう話をしなくちゃいけないんだけども。
 僕の芸術の定義はもうシンプルで、僕は「表現自体が目的化した工芸」を芸術と呼んでるんだ。つまり、本来、芸術なんてものは存在せず、あるのは「工芸」だけだったんだよ。
 「絵画というものは存在しなかった」と言うのも変だけど、例えば、もともとは「地味な襖を飾り立てるため」という用途で描かれていた絵が、いつの間にかに「絵単体に値打ちがある」ということになっちゃったわけだよね。それが芸術の始まりだと思うんだけども。他にも、前回の放送で話した通り、ゴシック教会の壁に描いてある宗教がも、最初は「キリスト教の教義や物語をわかりやすく理解させるため」のもの。それが独立したものが絵画だと考えてるんだ。

(中略)

 何の話をしようとしているのかというと、アニメってのはさ、もともと「子供に見せるためのもの」であったり、もしくは「ファミリー層に見せるもの」っていう機能があるんだよ。
 その機能というのを置き去りにして、アニメの表現自体が目的化してしまった作品もあるんだ。こういった、機能を置き去りにして目的化しちゃった作品というのは「芸術的だ」と言われて評価されやすい。
 具体的に言うと押井守の作品がそうだし、俺が嫌いなタイプの湯浅さんの作品なんかもそうなんだよね。つまり、本来持っている機能というのを無視して、作者とか、その取り巻き全員が「アニメというのは子供だけのものじゃない!」みたいなことを言いながら、表現自体をどんどん前に出して行ってしまえば、それはもう芸術になってしまう。
 いや、もちろんこれは「芸術が悪い」という単純な話でもないんだよ。機能のみに忠実になって、「子供のためのもの」という部分だけを守ろうとしている作品というのは、建前ばっかりで面白味がないんだ。でも、だからといって、表現だけに走っちゃった作品、いわゆる視聴者を置き去りにしたままに作家性のみを追いかけて行った作品というのも、僕から見てみたらつまらない。
 岡田斗司夫が一番面白いと感じるのは、機能と表現がぶつかり合った、緊張感のある作品なんだ。

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