少し前、この ShortNote を読んでとても印象に残っていました。
いつから「人の気持ちを察する」の事が、当たり前の世界になったんだろう。
いつから「人の気持ちを察する」の事が、当たり前の世界になったんだろう。みんな疲れないかな? 私の学生時代は、「人の気持ちを察する」のではなくて、「人の気持ちを考えよう」って生活だった。
人々は「十人十色」なんだから、「私はあなたじゃない」んだから、「あなたの望む世界、あなたの望む言葉や行動を全て考える事は不可能」なんだから、昔みたいに、「自分がされて嫌な事は他人にしない。」くらいシンプルでいいんじゃないか、
というお話です。
これを読むと、なんと生き辛い世の中になったことかと嘆きたくなる人もいると思いますが、
でも、これは社会の発展のマイナス面が見えているだけで、この裏側では、社会が昔よりずっと発展しているから、「人の気持ちを考えよう」から、「人の気持ちを察する」に変わっているのです。
なぜなら、「自分がされて嫌な事は他人にしない。」という行動原理は、あなたもわたしも同じ人間が出発点です。でも私にはたとえば盲目の人の気持はよくわからないし、「自分がされて嫌なことをしない」程度では、盲目な人が嫌なことをしてしまいそうだというくらいの想像力は働きます。
それは極端な例だと思うかもしれませんが、もっと生々しい例で言えば、知り合いには子供のいない夫婦は何組もいます。私たち自身も、結婚してかなり長い間子供はいませんでしたが、まあ、その頃から、子供のいない夫婦に「なんで?」とは聞いたことがありません。欲しくてもできないのか、そうでないのかなんてわからないし、前者だったらすごい地雷かもしれません。
自分たちは仮に聞かれても平気でしたけど、聞かれたことないし。さすがに親はほのめかしてきましたけど。
つまり、自分たちは聞かれても平気だけど、だからと言って、他人に聞いたりはしないわけです。余計な地雷は踏まないように。
昔は、盲目の人は例外扱いだし、結婚したら子供は作らなければならなかったし、そういった画一性があったから、「自分がされて嫌な事は他人にしない。」でやれてたわけです。
でも今はそういう画一的な人間像から外れた多様性が認められるようになってきて、それは一方で「人の気持ちを察する」必要が出てきたのです。
なんてことを感じていたのですが、それを象徴するような衝撃的な記事を発見しました。
中学入試、ある超難関男子校の国語問題に涙した理由
なんと、ある超難関男子校では「小学生男子に、戦後すぐの31歳独身女性の気持ちを考えさせる」問題が出ているというのです。
当然、今の「小学生男子」に「戦後すぐの31歳独身女性の気持ち」を経験的に知っている子はいません。つまり、学校側は
「この人物がどれほどキミ自身とかけ離れ、身近に似たような人物がいなくとも、この人物のここでの心情を、他でもないキミが背景と文脈と細部から読み取って、表現しなさい。そういうことのできる子に入学してほしいんです」と、このテストを通して伝えているわけです。
すでに学校は、直球で「人の気持ちを察する」ことのできる人材を求めているわけです。
なぜか。
それは簡単です。
これからはコラボの時代だからです。
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