「努力はいつも報われるわけではない」ことを肝に銘じようみたいな話題を頻繁に見ますので、少し整理してみました。狭義の意味で「努力は報われる」ようになっていて、一見「努力は報われない」問題と矛盾しているように見えるからです。

 「努力が報われる」世界が社会を対等しようとしています。それはゲームです。ゲームはやればやるほど報酬がでるようになっています。逆にそれがないゲームは流行りにくいですから、ゲームは必ず「目の前ニンジン」をぶら下げます。

 この「目の前ニンジン」は、今、目的を持ったあらゆるものが持とうとしています。

 市販のベビーフード。赤ちゃんの健康を考えれば濃い味つけは問題ですが、おいしいおいしいと食べてもらってまた買ってもらうには、「目の前ニンジン」として食いつきのいい「濃い味つけ」から逃れるのは極めて困難です。外食全体も同様の問題を抱えています。

 商品だけに限った問題ではありません。たとえば教育の分野にもゲーミフィケーションがどんどん取り入れられています。「目の前ニンジン」をぶら下げることで、苦痛だった学習がどんどん楽しくなっています。従来の詰め込み型の勉強はそうやってどんどん楽に学習することになります。その代わり、創造性だのチームワークだの別の能力も獲得することを求められるようになるのです。

 このように、なにか目的があるものには適切な「目の前ニンジン」が用意するテクニックが飛躍的に伸びています。

 そのために、今「目の前ニンジン」がないものに対しての考え方が極めて不安定になっています。

 そもそも、努力した・努力していないに関わらず、人が人生の中でやったことは、将来の人生につながっていきます。ジョブズの「ハングリーであれ。愚か者であれ」のスピーチでは、将来何かの役に立つと思っていなかったカリグラフの講義での経験が将来コンピュータを作る時に生かされたエピソードが出てきます(「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳)。努力したことがその時は報われることがなくても、将来なんらかの形で生かされる可能性は十分あります。

 逆に言えば、生かそうとしなければ生かすことは難しくなります。どなたのQ&Aか忘れたのですが、「内定決まったけど、大学で学んだことを生かせない。内定辞退するべきか」というのに対して、「そんなことはよくあることだし、あと、生かそうとしなければ生かせない」という答えが以前バズってました。

 ですから、「目の前ニンジン」にこだわらなければ、努力は報われるのか、報われないのかという問題は、実はささいな問題です。

 それどころか、これからの社会を生きて行く上で、「目の前ニンジン」にこだわることなど、自殺行為です。一昔前の工業時代、工場できちんと働ける人材になるには、学校の詰め込み授業をきちんとこなすことが大事でした。その頃に今のような「目の前ニンジン」テクニックが発達していれば、人々はもっと少ない努力で社会について行ったことでしょう。

 しかし今や簡単な知的労働ですら自動化され、人間は「他の人や機械にはできないこと」をすることが求められるようになっています。創造性などです。

 でもこれは成果にムラがでやすい分野です。次から次へと創造できる時もあれば大スランプの時もあるでしょう。違う言い方をすると労働時間と成果が比例しません。努力に対する短期的な報酬は担保されていないのです。

 逆にいうと、努力に対する短期的な報酬を担保できる作業は機械が担うようになっているのです。私たちには「目の前ニンジン」がない労働しか残っていないのです。

 これは人間が超えなければならない大きな大きな壁です。昔は強制することで行われていた教育も、これからは「目の前ニンジン」が整備されていきます。あらゆる商品そして教育も含んだサービスがきちんと「目の前ニンジン」を持つようになります。