この記事は【馬車目線】(?)でお送りします。


 フランスの首相が「テロとの戦争に入った」と宣言したそうです。

 仏首相「テロとの戦争に入った」 万人警戒態勢 - 朝日新聞デジタル 
 連続テロ事件が起きたフランスのバルス首相は日、国民議会下院で演説し、「フランスはテロとの戦争状態に入った」と語った。
 戦争だそうです。

 雑誌シャルリー・エブドの風刺画がきっかけでした。しかも突発的なものではなく、シャルリー・エブドは繰り返しイスラムの風刺画を載せて挑発し続けていたのですから、戦争に導いた主要な要因と言ってもいいでしょう。

 言論は戦争を引き起こす

という事実と世界はもっと向き合わなければなりません。

 昔から口は災いの元と言われていましたが、私たちは近年言葉の暴力性を毎日のように見せつけられています。ネットで激しくバッシングされ、自殺に追い込まれた人を私たちは何人も知っています。
 その力は戦争すら起こせるわけです。つい最近アメリカの映画をきっかけにサイバー戦争が起こっているように見えます。実態は詳しくは伝わってきませんが、韓国原発がサイバー攻撃を受けました。日本の原発が攻撃を受けるというのは現実的な危機です。

 無邪気に「言論の自由」を叫ぶのはたちの悪い原理主義です。たとえ言論であれ、単純に正義をぶつけあって譲らなければ、人を自殺に追いやる、あるには戦争を引き起こすという危険性と常にバランスを取らなければならないのです。

 今回欧米であるフランスが質の悪い風刺を続けたことには、特有のこだわりがありました。

 欧米社会がこだわる「言論の自由」の本質 | 冷泉彰彦 | コラムブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト 
 そのような長い歴史の中で、言論の自由というのは「いかに宗教的権威から自由になるのか」という厳しい戦いを通じて獲得されたという理解がされています。この宗教的権威から言論の自由を守るという発想法は、欧米の文化の根っこの部分に深く突き刺さった問題なのです。
 権威からの解放としての言論の自由の重要性は日本人にもわかります。この瞬間もろくでなし子さんが自分たちが持つまんこの権利のために表現を通して警察と激しく戦っています。

 しかし、今回のシャルリー・エブドの件はその構図とは違います。彼らがイスラム教から人権的に不当な扱いを受けていて、風刺を通して命をかけて戦っているわけではありません。つまり、そもそもこれは風刺かという指摘は多く見られます。次の記事では、自分の属する社会の権威を揶揄することと、異文化のそれとの対比が良くまとめられています。

 これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る藤原敏史・監督

自分の属する文化圏や社会の権威をただ批判するどころか、揶揄し笑いものにするところまでやるのは命がけだ。抗議文や脅迫よりも実はよほど深刻な、社の命運を左右するリスクを覚悟しなければならない。つまり「売れない」ことである。中略

ムハンマドの風刺は出来が悪い

異文化を揶揄するときはまったく違う。よく知らない、自分の所属するのでない文化やその権威を揶揄する際に適確な風刺に到達するのは、本来ならより難しい。無知ゆえの見当違いで風刺がスベるリスクが常にあり、だからこそ当然ながらより慎重さと作品のクオリティを高める努力が要求される。だが実際には、今回の事件で「週刊シャルリ」がこれまで掲載して来たムハンマドの漫画などが報道やネットに流れたが、率直に言って風刺としてはかなり出来は悪いというか揶揄として成立しておらず、ちっとも笑えない。

 私も率直な感想は、おっさんの脳内妄想垂れ流しという感じです。少女への自爆テロの強要とか、欧米人兵士による欧米人捕虜の斬首とか、風刺に取り上げるべき題材は他にいくらでもあるのではないでしょうか。

 自分たちを押さえつける権威でもないのに対象が宗教だったためにバランスに欠いた言論の自由にこだわってしまった、そんな風に見えてしまいます。

 しかし、その軽率な言論のために、事態は破局的な方へ向かっていきます。

 まず、新聞社襲撃だけでなく、それをきっかけに複数の殺人事件が起こります。これで、対一新聞社ではなく対フランスへのテロに拡大しました。ですから、フランス国民は大規模に団結しデモを起こすことになります。もとの風刺画の是非はもはや関係ありません。また、各国政治家も対テロを名目に団結し支持を集めました。仮に新聞社が今までの風刺画はやりすぎでしたと言ったところで、このテロとの対立構造が解消することはありません。ハッカー集団も対決を表明しています。

 連続テロに発展してしまったことで、フランス人のデモも、対テロへの戦争宣言も正当なものとして扱われます。これを責めることはできませんし、それはすなわち、問題の風刺画は一新聞社の問題ではなかったのです。このような事態をきちんと想定して、社会として問題の風刺画は自重させなければならなかったのです。