シェアって単純なもんじゃなさそう だから、整理して考えてみる
というプレゼンを拝見しました。何と何を交換しているかという点に着目して4×3のマトリクスに分類し、シェアという言葉がいくつかの異なる価値交換に使われているので分かりにくいから、ちゃんと分けて考えようという切り口です。
大変整理されていて参考になるのですが、そのマトリクスはこのまま生かせたとしても、項目の考え方は、ばりっばりに大正時代の価値モデルに縛られています。もう100年近くこのモデルだったので仕方ないのですが、今こそこの呪縛から逃れなければなりません。
大正時代の価値モデルとは何か。それは価値が分断されていることです。
たとえば、モノを提供する場合、「お金」を得るのが「売買」、「他者からの評価」を得るのが「プレゼント」、「自己の満足・喜び」を得るのが「寄付」と分類されています。
しかし、実際はモノを「売買」すれば、「お金」も「他者からの評価」も「自己の満足・喜び」も得ます。たとえば、熊野の化粧筆が売れたとします。売れるだけではありません。それを使った人は「やっぱり熊野の化粧筆は全然違う!」とか「思ったほどでもなかった」とか様々な評価を持ちますし、それは直接あるいは間接的に生産者に届きます。その評価によって、生産者は自己の満足・喜びを得られます。
現代、売買の中には、他者からの評価や自己の満足・喜びがほとんどやりとりされていないビジネスがあるかもしれません。結構目につくかもしれません。でもそれは今後衰退するビジネスです。野菜一つですら、ストーリーが求められる時代です。売買にモノとお金の交換だけではないことを明示的に求めているのです。
モノとお金の交換だけの売買は、未来においてなくならないかもしれないけど、マイナーなものになるのです。
ですから、価値と価値の交換を考える時、得るもの、与えるものはいろいろあります。「お金」、「他者からの評価」、「自己の満足・喜び」だけでなく、さらにどんなものを交換できるか多様化することでもっと付加価値がつくだろう、そんな風に考える必要があります。
なお、第三の価値には「自己の満足・喜び」とありますが、少なくとも私は、「自己の満足・喜び」を伴わない販売やプレゼントはしません。それは常に伴います。ですから、プロボノなどが分類されている「自己の満足・喜び」の項目はもう少し工夫しなければならないと思います。
大正時代のアメリカで分断された価値
本来これらの価値は一緒くたに交換されているのは自明だったはずなのに、なぜ分断されてしまったか。それは約90年前、1920年代、つまり大正時代のアメリカに遡ります。その頃アメリカではフォード社のT型自動車が爆発的に普及していました。同じ型を大量生産することが価格がどんどん下がり、多くの人が車を買えるようになったのです。しかし、需要が一巡するとパタリと売れなく運命にあります。
その代わりに台頭したのがシボレーです。シボレーは毎年のようにモデルチェンジをしたのです。
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