「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について
というエントリを読みました。
案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。東京のような、自由度の高い街、思い通りに自己決定できそうな外観を呈した空間では尚更だろう。少なからぬ個人が「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」と思っているんじゃないだろうか。なぐさめの言葉を待っているのではないだろうか。自分自身が正しいと思ってる生き方をしようと思っても、その通りに生きられる人なんてごくわずかしかいなくて、「正しく」生きられてない自分に対して、だれかが「正しかった」って声をかけなきゃいけないんじゃないだろうか、そういった「赦し」はいったい誰にできるのかと問いかけています。
そして、それは宗教だろうか、あるいは心理療法がそれを取り扱ってもいいのだろうかと、考えつつも結論がでないと締めくくられています。
私は、そんな権威に頼らずとも、「君も正しかった」とお互いに言い合えばいいのではないかと思います。実は「赦し」は必要ないからです。現実的に、自分が思う「正しさ」通りに生きられている人はほとんどいないし、それでも、結局みんななんとか生きてるんだから、「『正しく』生きてないと思ってる?私も。みんなそうみたいよ。結局『君も正しかった』んだよ。」と言ってしまえばいいのかと。
できることなら、その人と同じような生き方をして、やっぱりなんとか生きている人の例があれば、それはとても心強いと思うので、人生経験が豊富な人、あるいはそういった事例を豊富に知っているプロフェッショナルであれば、さらに説得力を持って「君も正しかった」とアドバイスできるでしょう。
それならなおよし、そんな人がいなくても互いに言うだけでもよし。ちょうど構造が似ているツイートを拾いました。広くコピペされてるようでオリジナルどこか分かりませんでしたので言葉だけ。
「世界中の2割の人はあなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は行動によって好き嫌いが分かれる。でも残りの2割の人はあなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできてるらしい。」その事を母に聞いて私は結構心が楽になった。自分で「おいら何やっても2割の人は好いてくれる」って言ってたら、なんか痛いけど、他人になら言えます。実際その言葉をかけてあげるのは、ヘマしても嫌いにならない人でしょうし、つまりこれを言えば「ここに最後の2割の人の一人がいるよ」と伝えられることになります。本当は2:6:2でなくて、1:8:1かもしれないけど、そんなことどうでも良くて、一人いるよと伝えられます。その言葉が普遍的に正しいと言える権威である必要はありません。
「君も正しかった」もつまりは「自分が見る限り『君も正しい』と思う」くらいしか言ってないわけですが、それでも充分ではないでしょうか。
ところで、この問題は過去よりもずっとやっかいになっているように思います。昔であれば、正しい人生とは親や社会から与えられていました。そしてそれはステレオタイプと言われ、型にはまった生身の人間とはかけ離れた単純な形ですから、誰もが生身の人間として成長する過程でそのステレオタイプに自分がハマりきれるわけがないと気付き、人間いろんな生き方があることを知ることで、自分自身の人生も受け入れ易くなります。
しかし、今はそうなりません。親は社会が人は自由だと言ってしまうと形式上ステレオタイプはなくなります。
コメント
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そういう比率があるって知ったところで「じゃあ自分は」って考えつかない人は幸福だよ
それを考える人は、好き嫌い中間、だいたい全部にあてはまる
自分のことが好きだから、自分を嫌いな人が嫌いだし
自分のことが嫌いだから、自分を好きな人が信じられなくて
自分のことだけに、好きか嫌いか良いか悪いかを一生懸命考えちゃってね
最終的に、もうどうでもいいや、っていう結論に至らせる
好きとか嫌いとか、煩わしい
なぜこんな面倒臭いことし続けてまで生きる必要があるのか分からない
考えるのももう疲れたんだよと
幸せそうに肩を並べている人たちに唾吐いて
苦労のない穴にさようならってしたくなる
(ID:3989849)
信念で行動している限り誰もが正しい。
利害によって相手を叩くかもしれないが、それは主観の違いによるもの。
心の強さは願いの強さで決まる。願いを振りかざしている人間は全て正しい。
それが社会的に悪であったとしても。心折れるまでは。
(ID:16097048)
僕だったら
甘えんな、苦しめよって言われたい
別にMとかそんなんじゃなくて