『無我の境地』とか『無我夢中』って言いますよね。『無我の境地』と言えば、過酷な修行をした人だけが到達できる高みなわけですが、一方で『無我夢中』なら、私たちだってスプラトゥーンやってたら朝になってたくらい簡単に発生するイベントで、「無我」にもいろいろありそうです。

 とりあえず分類してみました。

 1. 反射的な力
 2. 「言葉を使わず考える力」

 どちらも言葉を使わずに発生するために、言葉で説明しようとすると詰まってしまいます。

 1. はなにかを無意識にできるようになる力です。自転車最初は乗れないけど、乗れるようになったら何も考えずに乗れるようになる力です。

 これは運動だけではありません。将棋のプロ棋士が詰将棋が見ただけで解けるように、いわゆる考える力でも訓練できます。最近本を読む時脳内で音になる話をとりあげているうちに、私は「7 - 4」みたいな簡単な加減なら音で読まなくてもできることに気がつきました。もし画面に出る簡単な問題にもくもくとキーボードで答えている姿を見たら、「無我夢中」に見えそうです。

 しかし、その力とは別に「言葉を使わずに考える力」が発揮されているときもあるでしょう。いわゆる「ゾーン」に入ったスポーツ選手です。

 「言葉を使わずに考える力」だけが発揮される時の衝撃的な体験は、以前

 一時的に左脳を失った科学者の話が悩ましい 

で紹介しています。
 右脳の意識を通して見ると 私という存在は 自分を取り巻くすべてのエネルギーとつながった存在なのです。 右脳の意識を通して見た私たちという存在は 1つの家族として互いにつながっている エネルギー的存在です。 今 この場所 この瞬間 私たちはこの地球上で 共に世界をより良くしようとしている兄弟姉妹です。 この瞬間に 私たちは完璧であり 完全あり 美しいのです。
 まるで新興宗教です(笑

 普段私たちが「自我」と考えているのは、「言葉を使って考える力」によるものが大きいです。それが左脳だけで行われているわけではないようですが、わかりやすくいえば自我の左半分です。でも、自我にはもう半分右側があります。自我には「左我」と「右我」二つあるのです。

 この「右我」が前面に出てくると「無我」が出てきているように見えます。なにしろ言葉を失った状態ですから。その究極の形は、先の科学者の例のように、まさに『無我の境地』です。一方で無心にゲームをしているような状況もありますから、「右我」はなにも特別な存在ではありません。

 詰将棋を見た瞬間答えがわかるというような、膨大な努力の末に獲得される反射的な力ではありません。

 普段使いできる力です。

 「無我」というとなんだか特別な状況に聞こえますが、そうではなく自分の半分「右我」なのです。

 なにかちょっとしたレポートを書いた時、全体を見て「よし!」と思える力です。

 「無我」なんてかしこまらずに、息をするように「右我」を呼び出して活用しましょう!



《ワンポイントミライ》(

ミライ: ”俺の友達出てこい「右我」!” ですね。

フツクロウ: ホッホ。