「努力」はオワコン、代わりに「やり抜く技術」を学ぶ社会に(その3) のつづきです。
無駄な「努力」が疎まれる一方で、身に付けたい力「やり抜く力」。社会を見渡せばいい大学を出てなくたってこの力を持って成功している人はいくらでもいます。
これはつまり今までの学校教育は、この「やり抜く力」を育むという点ではうまくいっていないようにも見えます。
なぜ今までの教育は「やり抜く力」を育むことに無力なのでしょうか。
その原因はいくつかあります。
無力な理由その1「努力すればできる課題しか出さない」
「やり抜く力」というのは、いわゆる「根気」だけの話ではありません。分厚い本を読み切るには、根気が必要ですが、読み切ったからといって、今回のテーマである「やり抜く力」そのものではありません。なぜならここでいう「やり抜く力」とは、取り組む課題にそもそも答えがあるかどうかわからないものをやり抜く力を指すからです。
たとえば地域で交通弱者問題の解決が切実であっても、持続的に回る仕組みができるとは限りません。地域ごとに事情があってよそでうまくいったものがうまくいくとも限らず、そういうのを参考にしながら、自分たちの地域にあった方法を編み出していかなければなりません。でも、できるとは限らないのです。
できるかどうかわからない問題に地道に取り組み、結果を出す力、それが「やり抜く力」です。
「やり抜く力」は様々な力の総合力です。詳しくは改めて考えるとして、たとえばできないことは諦めるか一旦休む力が必要です。安西先生の「諦めたらそこで試合終了ですよ」という言葉は美しい言葉ではありますが、できるかどうかわからない問題に取り組むには、諦める力も必要です。
しかし、学校が出す課題というのは、どれも「できる」ことでしかありません。
それらの課題が難しいものであれば、達成することで「根気」を育むことにはなりますが、ここで考える「やり抜く力」を直接育てるわけではありません。
無力な理由その2「時間がない」
答えがあるかどうかもわからない課題というのは、したがって結果を出すのにどれくらい時間がかかるか読めません。オルタナティブスクールなどでは、プロジェクト式学習として自分でテーマを決めて主体的に活動したりしますが、まさに最初から結果がわかってない課題に取り組む活動です。今の普通の学校ではこのような活動をする時間は設けられていません。どこか隙間時間に取り組んでできるようなことではありません。
あえていえば、夏休みの自由研究がそれです。私の子供の頃からすでに普通にありましたから、昔から自由研究の重要性は認識されているのでしょう。
しかし、自由研究のやり方や指導は家庭に丸投げです。学校は「やりぬく力」は大事だけど自分たちには育てられません!と言っているようなものです。
学校にしても、子供達の成績を上げるなり、成果をあげなければなりませんから、自由研究のように途中で挫折するかもしれないようなことに力を割いても、挫折しようものならかえって非難されかねません。
このような歪みは、全て、「努力」と「根気」と「やり抜く力」が、社会の中でごちゃまぜになっているからです。
「努力」と「根気」だって全然別のものです。私たちはゲームの中で、レベル上げるために単調な作業を実に根気よく続けられます。そのゲームにハマってない人から見ればものすごい「努力」に見えるかもしれませんが、当の本人達は必要だから当然のようにやっているだけで「努力」かと言われるとよくわかりません。誰だって好きなことには「根気」を発揮するのです。
その「根気」と「やり抜く力」が必ずしも一緒ではないことをこれまで見てきました。
今までの学校では「やり抜く力」を育てるのは困難なことでした。
でも、学校だってただ手をこまねくことはないでしょう。だって、これからの社会を生き抜いていくには、そういう力が必要だというのは明らかだからです。
「やり抜く力」を育むために学校に何ができるのか、次回考えます。
(つづく)
《ワンポイントミライ》(?)
ミライ: 「やり抜く力」とは答えがあるかないかわからない課題に取り組む力!
フツクロウ: ホウじゃ!
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