井上達夫的リベラリズム
普遍の再生
現代人は哲学的思考や自己批判を回避して、自らの存在をまったき肯定の文脈に位置付けるという「力への欲動」を抱いている
普遍の再生
現代人は哲学的思考や自己批判を回避して、自らの存在をまったき肯定の文脈に位置付けるという「力への欲動」を抱いている
普遍を操る権力の恣意と、普遍を殺す知性の恣意。現代を支配する両者は同根である。力への深き欲動である
三つの普遍概念
配慮的正義 「力への意志(他者への配慮なきエゴの拡張、全能感希求)」を去勢するものとしての「普遍」
包摂可能性 諸個人の「力への意志(全能感希求)」を何らかの装置によって、一つの全体へと包摂して飼いならす。集合的に表現する
多元的な全能感の追求 包摂からの絶えざる逸脱や闘争を奨励し、善き生の複数性を集合目標としつつ、逸脱的な生それ自体を善き生の一部とみなし、マルティテュードの欲動を肯定しながら「多元的な善き生」を積極的に推進する
後発国や保守化した先進国が、人権や公正といった普遍的理念を「歴史的文脈主義」の名の下に退ける
普遍を再生するための実践的な企ては、外生的な普遍を内発的な普遍へと転換すべく、「人権」を「搾取」概念を経由して読みかえること。「解放」の理念が「普遍」の追求を先導する
個人の自律、中間集団の文化的豊穣性と多元性の促進、国家の機能(安全保障と民主的熟議)の強化、グローバル社会の健全な運営(超大国の覇権を制約して小国やマイナーな文化の政治的地位を支援すること)、という四つの価値をいかにして調整するか
多元性は人工的・作為的な制度的支援によって促進されるべきもの
古典的なリベラリズムは、私的なものを非政治的なものとみなすかぎり、公私の間のボーダー領域における社会運動(善として掲げる可能性それ自体を政治的に表現するという社会問題化の実践)というものを、自らの思想の中に取り込んでいない
内発的普遍主義とは、文脈内的な意味理解や正当化の可能性根拠・規制理念として、普遍への志向が不可欠であるとする視点のこと
議論の普遍化可能性の追求は、新奇で多元的な議論の成長可能性という理念的目標のエコノミーに服さなければならない
「普遍の再生」は、どの個人も一定の文脈から内生的に出発することを前提とする以上、特定の文脈に拘束されないで普遍を志向する個人、例えば、浮遊する知識人やコスモポリタンのような人々は、なんら社会的役割を与えられていない
普遍を志向するためには、まず特定の文脈を引き受けなければならない
諸文脈に感応しながら普遍化可能な論理を創造していく知の批判的営みこそ、規範原理の最適化に必要である
現代の貧困
天皇制にもとづく社会統合における内部的異質性の排除
会社主義という閉じた共同性の社会病理
利害調整的政治過程の言論的貧困
以上の三つの貧困を克服するために、リベラリズムが要請される
リベラリズムの三つのフェーズ 逞しき個人の賞揚 過剰な集団主義の抑制 弱き個人を鍛えるための教育理念
「逞しき個人」にとって、リベラリズムは人生哲学たりうる。しかし「集団主義者」にとって、リベラリズムは、自らの善き生に対する制約条件(バランス感覚の規範)を意味する
リベラリズムの根本概念は、異質で多様な自律的人格の共生。それは個人の自由を尊重するが、自由な個人の関係の対等化と自由の社会的条件の公平な保障を要請する平等の理念をも重視し、自由と平等とを、正義を基底にすえた共生理念によって統合する
リベラリズムは、「多様な善き生が開花する社会」を目指しながら、その目標が多くの人々によって追求されていないような社会を許容してしまう
諸々の善の要求が「よりよいもの」へと成長する可能性に開かれるように、またその可能性を追求することが社会的に奨励されるように、「成長」の理念を思想的コアにすえる
天皇制と多元主義の結合 民営化された天皇が、会話共同体の主催者機能を引き受けるアクターとして機能する社会
我々の共同性が充全に開花するのは、我々が人間の共同生活の多様な平面・領域に複合的に参加し、多様な責任を引き受け遂行する資質と能力を陶冶する場合のみである
諸個人が自己の認識論的パラダイム(コスモロジー)を持っていて、その外部に「存在の大いなる野性」があることへの畏怖と承認が、パラダイム内の合意を超えるメタ合意への志向を促す
真理は、諸パラダイムの相補性の認識を促すよりも、むしろ、一定の問題に対するよりよき応答の可能性(これまでの応答を捨てる可能性、したがって相補性の否定)を保持するという態度に相関している
民主制における少数者保護というメタ合意に真理の機能を固定するのではなく、諸価値の闘争化と闘争的な討議を促す制度において、はじめて規制理念としての真理が有効に機能する
民主主義は、合意の形成過程ではなく、人々の潜在的能力の活性化という意味での「民主」=民衆のエンパワメント
「支配の流動化」と「存在論的志向に基づく闘争の原理」
「闘争的な討議」「人間解放の可能性の政治的表現」「潜在的能力の実現主体」「代表者の闘争責任」「参加の本質としての全能性」「神々の闘争の表現」
「標準統治制度の制限と標準化されない政治実践の活性化」「多元性の促進のための少数者保護」「政治過程における少数者問題の活性化」
法という企て
正義の普遍主義的要請が魅力的であるのは、現代社会においてはどの文脈も完全に閉じたものではありえず、判断の根拠を内部で充足することができない、という点を指摘しているから
よりよき法の支配をあらゆるチャンネルから探求する社会こそが、すぐれた法の支配を実現している社会である
ダイナミックな通時的平等を促進する場として市場競争を再定義する 動態的社会変化そのものを公正の基準に据える
共同体論の側からの提出された「自己解釈的存在」の理念は、特定の共同体に従属するものではなく、その自省作用を通じて既成の共同体を分裂・分化させ、伝統を多元的に増殖させる力をもっている
リベラリズムは、自己の絶対化衝動をはらむ自由を抑制する原理として、「自己を脱中心化する試練を与える師」としての他者を要請する
他者への自由
他者への自由
リベラリズムとは,価値対立が生起させる正当性危機への応答の伝統
階級対立に規定されたリベラリズム像より歴史的にも古く,産業革命が生み出した階級闘争よりむしろ,宗教改革が引き起こした宗教戦争に起源をもつ
脱神学的妥当根拠をもつ規範を探求したグロティウスによる自然法の世俗化 ロックの寛容論
ロールズの「正義原理」
「善き生」の特殊構造―人生の意味・目的や人間の人格的卓越性を規定する様々な特殊構造―から独立した理由によって正当化されなければならず,またかく正当化された正義原理の要請が善の特殊構想の要請と衝突する場合は前者が優越する
万人の自由の平等な「最大化」ではなく,平等な「最適化」
社会的対立の単純化への偏執,社会的対立を一挙に止揚して,葛藤なき調和性を調和体を実現したいという母体回帰願望こそ問題
アナルコ・キャピタリズムは、国家が解決する問題を解決できないか,あるいは,国家の機能的等価物を発生させることにより,それを解決する 富者の私兵による貧者の蹂躙,貧者の暴動,私兵団の間の恒常的闘争
無政府社会は,共同体的な全員一致のコンセンサス原理-これは契約のように個人に拒否権を与えるのではなく,仲間への同調を要求する-と,強い同調願望を再生産する浸透的な社会規範とによって結合された,対面的社会的小集団においてのみ可能
相対主義が価値対立の状況において民主制の公共性要求の基礎として広く受容されることはありえない
人々を単なる私利追求者や欲望の奴隷としてではなく,価値志向的存在として尊重することと、民主制の両立を目指すリベラリズム
ある価値観が正しいということと,それが強行されるのが正しいということとは,区別されなければならない
すべての価値が「善く生きるとはどういうことか」という問いに対する解答に関わるだけではなく,このような問いを発し,自己の生をその探求に捧げることのできる道徳的人格としての人間存在の可能条件に関わる価値が存在する
人格完成価値(善く生きるとはどういうことか)
人格構成価値(善く生きると言うことを考えるための道徳的人格の可能条件)
リベラリズムは正義原理を正当化する価値の次元で中立性を標榜しないだけでなく,善き生の諸構想に対する中立性も標榜しない
真理や価値に関する我々の異論の余地のある見解を,法を使って他者に強要することを正統化する,公的に受容可能な論拠の同定を可能にし,それによってかかる法的強制の限界をも画するような原理を模索
ある原則が力の行使を正当化できるのは,それが制約性をもつときのみであり,それが制約性をもつのは,それが競合する善き生の特殊構想から独立に正当化可能なときのみである
道徳的人格を陶冶し保護する社会的結合形式を,会話をパラダイムとするところの異質な自律的人格の共生を可能にする社交体に求め,正義原理を社交体の構成規範として位置付けた上で,それを会話の作法の反省的析出と一般化を手掛かりに構想
共同体論による批判
正義の基底性は正義を善の特殊構造から切断することによって普遍化しようとするが,これは正義を無内容化・無力化してしまう
個人の主体性の形成の社会依存性を無視する誤った原子論的人間観
自己のアイデンティティを自己の選択能力のみに負う「負荷なき自我」
「位置ある自我」こそが,強い人間的主体性を確立するために必要な倫理的脊椎をもつ
社会の共通の善き生の理想を公共的に議論し執行することを政治の任務とする卓越主義的な「共通善の政治」を確立する必要
共同体論(communitarianism)
アトム的に孤立した個人の,無力化・恣意化された選択の自由から,一定の歴史と伝統に定位し,未来を共同形成してゆく共同体の中で陶冶された,個人の豊かな人間的主体性へ
負荷なき自我にとって善とは,自己省察を通じて探求され発見さるべき何かではなく,正義の制約の枠内で,いかようにでも好きなように決定できる主観的選好の問題に過ぎない
位置ある自我の構成的目的が単なる個人的特性ではなく,この自我が属する共同体の共通善の一部であることを強調する構成的共同体観
共同体において異なった個人が異なった善き生の構想を追及するのを放置しておけば,彼らを構成的に結合する,共有された同一性の基盤が侵食され,結局,共同体が負荷なき自我の寄せ集まりへと解体してしまう
社交体は「法則支配的(nomocratic)」な連合であり,
これを結合させている伝統は,歴史的に発展してきた「公民としての品位ある振舞の規範」 いかなる目標を追求すべきかを規定するのではなく,目標の追及の仕方を規制するような諸規範に体現されている
解釈的自律性と厚い自同性の故に,相互に質的に異ならしめられた自己解釈的存在が,互いの質的な異なりを尊重し,楽しみあうような「共生」を可能にする結合形式
コミューニケイションではなく,目的地を異にしながらも偶々道連れとなった旅人同士のような,関心や目的を異にする人々の間での会話,共通の議事日程などに制約されずに,話題が予測不可能な形で多方向的に自己増殖してゆくような,open-endedな会話
我々の善き生の諸構想の多様性に拘らず,我々は我々自身の限界についての自己理解を共有できる.なぜなら,我々は共通の人間的限界に服し,共通の人間的悲惨にさらされ,共通の人間悲劇に巻き込まれているからである
リベラリズムは自律的人格としての個人の尊厳と共生の理念に立脚し,この理念を受肉させるために個人の諸権利の拡充に努めてきたが,この企ての成功自体が権利衝突の深刻化というディレンマを生んだ
それを政治的に解決するために発展した利益集団民主主義が,個人を政治的に周辺化し無力化させることにより,個の尊厳の理念をかえって形骸化してしまうと同時に,
公共性の衰退と特殊利益の分裂・抗争とによる社会の断片化を進行させ,公正な共生枠組を解体するという,より根源的なディレンマにリベラリズムを陥らせている
自由を鍛える自己の流儀に固有のかたちを与えるために,自由の可能性と限界を認証する固有の刻印を押すために,自由以上の何かが必要
それは、価値の多元的対立下における公共的な正統性原理の探求という思想的企て
自由は自由を否定する欲動を内包する.それゆえ自由の優位は自由の廃位である
正義の基底性は自由の優位を否定し,自由のリビドーに公共的節度を課すことにより,自由を鍛え直す
自己と異質な主体としての他者の承認と尊重は,自由には内属していない.自由がこのような他者を認知できるのは,自己の限界を認知するときのみ
他者の他性を真に尊重するためには,自己同一化と自他差異化の相互依存性の視点を超えて,「同」と「差異」の相関秩序そのものを突き崩す存在として他者を捉え直すことが必要
まさに他者ゆえに尊厳をもつ他者の受容は自由に己の限界と責任を教え,そのことによって,虚勢や誇大妄想を超えた本当の強さと自己超越の可能性を自由に与える
<自我>の容量を超えて<他者>を受容すること、世界を自己の内部に包摂し同化しようとする私の知の体系の「全体性」を突き破る「無限」として他者を受容すること
自由が自由によって正当化されることはない.存在に根拠を与えること,それは正義をつうじて他者と出会うこと
<他人>は<自同者>をその責任へといざなうことで<自同者>の自由を創設し,この自由に正当な根拠を与える
自由の試練としての他者は自己の自由を圧服するもう一つの自由なのではなく,逆に,自己の自由に圧服される傷つき易さによってこの自由を審問し裁く道徳的試練
私の視点に還元包摂されえない固有の視点から生の意味と価値を開示する他者との共生が,私の生の探求の地平を広げ,それが織り成す紋様を複雑にし,豊かにし,
このような共生は善き生の構想を異にする自他の視点から受容しうべき共通の正統性基盤に政治実践を基づかしめない限り不可能
リベラリズムは自由主義ではない
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