はじめて読んだのは確か「生まじめな戯れ」だったと思う。

小林よしのりのゴー宣に出てくる保守思想家だから、気になって読んでみた。

だが、イメージしてた内容と違っていた。

保守っていうよりポストモダン思想みたいな印象を受けた。

 

西部はニューアカ系の中沢新一を東大に推薦して騒動になったりもしている。

普通の保守言論人とは違うタイプだというのは何となくわかった。

 

ちなみに俺は高校時代に小林よしのりや石原慎太郎の影響を受けてネトウヨになっていた。

 

2ちゃんねるやYahooチャット政治部屋で毎晩のようにネトウヨやっていた。

 

デモにも参加した。

同じ愛国者どうしで民主党やマスコミや中韓あるいはアメリカを批判していた。

そうやって自分が新しい日本の歴史をつくっている気になっていたんだろう。

 

だが、そうしてるうちに同じ話ばかりする保守界隈のノリに飽きてきた。

「東京裁判史観」とか「チベット問題」とか最初は怒りも湧いたし、
刺激的だった。

しかし、いつも同じ内容の繰り返しで、話し出すそばから何を言うのか内容が予測できるし、
退屈になってきた。

「日本国憲法無効論」とか「日韓断交」とか過激だが実現不可能な空論を真面目に議論してて、
アホらしくなった。

 

 

その間も時々西部を読んでいた。

 

「保守思想のための39章」「思想の英雄たち」「人間論」「死生論」「学問」「虚無の構造」。

 

時事問題や政治を具体的に論じる著書もいいが、その前提となる根源的な思想を展開したものの方が好きだった。

ただし「知性の構造」は難しすぎてわからなかった。

 

人生、歴史、国家、言葉、戦争、西部の思想は網羅的でかつ筋が通っていた。

「これが思想家か」と感心した。

 

人間は不完全な生き物であり、理性によって社会を完璧に設計しようとすれば間違う。

人間の理性を超えた知恵がある。

その知恵は長い歴史で積み重ねられてきた伝統の中に秘められている。

先人たちが無数の失敗や成功を重ねた悠久の歴史の中で生き残ってきた伝統。

そして伝統には形がない。

伝統は具体的な慣習の中に宿る。

よって古い慣習を捨て去ることは、伝統の知恵を捨て去るということだ。

伝統の知恵とは、つきつめれば「バランス感覚」である。

自由と秩序、平等と競争など、矛盾してしまう諸価値の間でバランスを保つ知恵。

バランスが保てず、どちらか一方に偏ってしまえば、人間社会は活力を失い、危機に陥る。

例えば、自由がいき過ぎれば放縦に、秩序がいき過ぎれば抑圧にといった具合に。

グローバル化で家族や共同体が崩壊し、孤立した個人がニヒリズムに晒される。

それを誤魔化すために、最新のテクノロジーによる刺激的な商品が次から次へと市場に投入される。

濃密な人間関係が失われ、死に向き合う静寂の時も消えていく。

人間はどんどん知恵を忘れて動物化していく。

愚劣であさましい大衆が、自由と民主主義の名の下に国家を蝕んでいく。

 

俺は思った。

保守が守るべき伝統とか慣習とかもうほとんど壊れちゃったんじゃないの?

守るべきものを失った保守なんか、陰謀論や極論が空回りして、
カルトか差別主義者か如何わしい業者になってしまうのがオチだろ。

保守という言葉にはもはや胡散臭さしか感じない。

 

俺はよく「お前は人として最低」「常識もわからない」とか言われる。

人間とは何か?常識とは何か?つきつめて考えたことのないような連中に言われる。

まあ、答えの出ない難しい問いではあるが、少なくとも答えが出ないと分かった上で、
秩序を保つための作法としてそういった言葉を発するのなら、なんとか納得できる。

考えようとすらしない奴らに脊髄反射的にそういうことを言われても、ただの悪口にしか聞こえない。

 

西部の言葉は胸に響く。

一言一言から覚悟が伝わってくる。

俺には想像もできないくらい深く長く考えたのだろう。

 

西部は「命よりも大事な価値を見つけてやろうとする構え」を戦後日本が忘れたことの恐ろしさをよく語っていた。

 

反戦、反国家、あるいは反左翼、ただ何かに反抗することだけが思想と呼ばれ、言論とされる。

伝統という内実を失った社会は、同時にリアリティも喪失していく。

空虚な言葉がネット社会を上滑りし、リアルとバーチャルの境界もいつの間にか曖昧になっていく。

かけがえのない大切なものを亡くしても、何を失ったのかすら思い出せなくなる。

世界に深みと重みがなくなっていく。

 

脳の快楽中枢に電極を接続して電気刺激を与え続ければ、その人間は死ぬまで幸せでいれるのか?

死ぬまで楽しいまま過ごせるのなら、それで何が悪い?

「そんな人生いやだ」と言うのなら、スマホなどのテクノロジーに囲まれた現代日本人の人生は、電極人間の人生と何が違うんだ?

人生の価値を語る資格を失った現代日本人は、さっさと電極を埋め込まれて、AIに人生をデザインしてもらえばいい。

 

新しい流行に必死に飛びついて、離れて、また次に飛びついて、その先に一体なにがある?

伝統とか死とか重々しくてめんどくさいことは、適当にわかった気になって、他のもっと楽しいことに時間を費やしたいのだろう。

新しくて楽しい刺激は次々現れてくる。

個々人がバラバラに孤立化して、孤独を流行の刺激で誤魔化して、みんなが共有する「常識」が曖昧になっていく。

何が正しいのか、自信がなくなってくる。

不安な自分に向き合うことから逃げて、自己肯定のために転んだ者をマウンティングしはじめる。

被害妄想や嫉妬を顕わにした大衆が、炎上というパンとサーカスに興じる。

「伝統」とか「人生」とかただの言葉遊びでしかなくなる。

 

自らの死生と向き合うということは、伝統を受け入れるということだ。

人間は歴史の流れに中で伝統を運ぶ乗り物。

過去から受け取り、未来へと受け渡す。


西部は改憲派で核武装論者で原発賛成だ。

なのに脱原発で9条護憲の左翼・リベラルまで西部との忘れられない思い出を語り、その生き様に心揺さぶられている。

主張が真っ向から対立する相手をも魅了する何かがあった。

言葉を大切にし、目の前の他者と真っ直ぐ誠実に対話する。

できそうでできないことを最後までやり遂げた。

 

西部は死に場所となった多摩川の流れを見つめながら、何を考えたのだろう。

先に逝った妻のことも思っていただろう。

俺はなんとなく何か冗談めいたことを考えていたような気がする。

下劣に笑い騒ぐ大衆を軽蔑していた一方で、ユーモアのない堅苦しさがとても嫌いだった人に思える。

 

小林秀雄は「人は死んだ後にはじめて人間になる」と言った。

 

俺が人間を見るのはこれが最後となるだろう。