私は信じている。大事な人を。
私は生きていきたい。できるかぎり。


すべては無であり、我々が見ている世界とは幻である。
よって何でもありだ。
何をしようが何を言おうが、何でもありだ。
どんな生き方をしようが自由だ。

でも死ぬのは怖い。
逮捕されるのも嫌だ。

なぜだろうか?

それは「私がここにいる」という生々しいかけがえのない感覚があるからだ。

「すべては無」なのにこの「私」というリアルな感覚だけは間違いなくある。

この「私」とは何なのだろうか?

私が思うに「私」とは存在でも無でもなく、場所なのだ。
逆に言えば、「私」という場所は存在でも無でもあり得る。


私はルサンチマン(怨念)に突き動かされている。
私は、ありのままの私を認めてくれない受け入れてくれない社会を怨んでいる。
私を十数年間にもわたって孤独にさせて、発狂寸前にまで追いつめた社会を怨んでいる。

私が孤独だったのは、単に私が甘ったれで、卑怯で、臆病だからだったのだろう。
まあ、そうなんだろうが、でも私はそれを社会のせいにして怨んでいる。

このルサンチマンは確かに間違いなく存在するんだから、どうしようもない。

私はこの社会を全否定して、根底からひっくり返したい。

でもそんな私はこの社会の法律や常識、そしてそれに従って真面目に生きている人々によって生かされている。
確かにそうだ。
でもそんなの関係ない。

なぜならすべては無だからだ。
私がここにいるという感覚だけが確実なことだからだ。
そしてその私がルサンチマンに突き動かされているからだ。

他のことは知ったこっちゃない。

それは別の角度から見れば、ただの現実逃避だろう。
いつまでも現実逃避していれば、いずれいき詰まる。
生きていけなくなる。

でも、その時は生き方を調整すればいいだけで、考えを変えるつもりはない。
変わるべきものがあるとすれば、それは社会の方だ。


明るく、前向きで、希望に満ちた社会は、「闇」を隠している。
「闇」から目をそらし、見ないようにしている。

人間は腐ってて、人類はオワコンなのに、光ばかりに目を向けている。

なぜ人類がオワコンになったのか?

それは闇をないがしろにしたからだ。

本来、世の中は光と闇の絶妙なバランスで成り立っていた。

光と闇、生と死、希望と絶望、喜劇と悲劇、善と悪のコントラストこそが人類の文化の醍醐味なのだ。

人類が闇を差別し、邪魔者あつかいして、排除しはじめたのはいつからだろうか?
恐らく、文字を発明して使うようになったあたりからだろう。
文字を手にした頃から人類のオワコン化ははじまっていたのだ。

でも、それでも前近代まではまだマシだった。
闇に居場所があった。

しかし、近代以降は闇を全否定し、光に向かってひたすら近代化し進歩し続けた。
光しか見ないで人類の進歩という栄光の道をひたすらまっすぐ歩んでいった。
道ばたや路地裏に蠢く闇から目をそらして。

すべての闇を捨てて、社会を光で覆い尽くせば、世界は真っ白に輝く無機物になる。

世界は無意味は発光体になる。

そして闇が完全に消え去れば、それが光であることすらわからなくなる。
そこではじめて人類は、すべてが無であったことを思い出す。

それが人類の終わりだ。

歴史のオチだ。


そもそもなぜ光と闇が現れるのか?

それは人類が、すべては無であり世界は幻だ、という現実から逃げているからだ。

人類は無が怖いから、わからないから、受け入れ難いから、言葉によって世界をでっちあげて逃げてしまったのだ。

無と一体化していたはずが、いつの間にか人類だけ切り離されてしまった。

人類は嘘をついている。

宇宙を認識しているという嘘を。

現実を経験しているという嘘を。

「世界」という嘘を。


嘘を真実にしてやろうという開き直りが光を生み出し、

嘘をついていることへの罪悪感が闇を生み出している。


私の怨念は美しい。そして正しい。

ルサンチマンが、人類の嘘を暴き、罪を裁けと叫んでいる。


人生は無意味で、生きるに値しない。

しかし、私の闇は美しく正しく、素晴らしい。

だから私は生きるべきなのだ。卑怯で臆病で醜い人生を。滅びゆく人類への弔いの花として。