チャールズ・ダーウィン(1809 - 1882)


1870年代のスピリチュアリズム・ムーヴメントは多くの科学者たちにも大きなインパクトを与えました。科学者たちは霊の存在を客観的な実験によって検証しようと、それぞれのやり方でスピリチュアリズムに接触します。

19世紀の最も革命的な生物学思想である「進化論」を提唱したチャールズ・ダーウィンもその1人でした。

科学者仲間や親族など、ごく親しい人々が次々にスピリチュアリズムに傾倒していく中、ついにダーウィン自身も交霊会へと参加することになります

果たしてダーウィンの目に、交霊会はどのように映ったのでしょうか――。(編集部)


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チャールズ・ダーウィンの参加したその交霊会は、ダーウィンの兄弟エラスムスの家で開催されました。前述ヘンスリー・ウェッジウッドフランシス・ゴルトン、さらに哲学者のジョージ・ヘンリー・ルイス、女流作家のジョージ・エリオット、後に「サイキカル・リサーチ協会(SPR)」の中心的なメンバーとなるフレデリック・マイヤーズ、ダーウィンの息子ジョージ・ダーウィンを含む家族のメンバーたちがその日のテーブルを囲みました。

ちなみに、ヘンスリー・ウェッジウッドやフランシス・ゴルトンのようなスピリチュアリズムへと明らかに傾いていた参加者がいる一方で、完全に懐疑的な立場をとっていたのは女流作家ジョージ・エリオットと哲学者ジョージ・ヘンリー・ルイスでした。

こうしたロンドンの知的エリートたちが集まったエラスムス宅へと呼び出されることとなった栄誉あるミディアムとは、いったい誰だったのでしょうか。それは1870年代に入って台頭してきたニュージェネレーションのミディアムの1人、チャールズ・ウィリアムズでした。

チャールズ・ウィリアムズ(右)と霊(左)と浮遊するテーブル。

ウィリアムズはもう1人のミディアム、フランク・ハーンと共に「ジョン・キング」の霊のフルボディ・マテリアリゼーションを定番とするミディアムでした。

ここでダーウィン家の交霊会の話に入る前に、いったんフランク・ハーンと共にチャールズ・ウィリアムズが行っていたパフォーマンスがどのようなものだったかを少し紹介しておきましょう。

ハーンとウィリアムズのパートナーシップは1871年にはじまります。初期の彼らの出しものの中で目新しいものがあるとすれば、それは真っ暗な部屋の空中に火の文字でメッセージが書かれることでした。たとえば、1872年5月15日の『スピリチュアリスト』において、W・H・ハリソンは次のように報告しています。

「ウィリアムズ氏の近くの空中に霊の名前が大きなリン光の文字で素早く書かれた。次に同様の素早さで霊たちは「God Blee――」と書き始めた。そのとき放電のようなパチッという音、そして部屋全体を照らし出す光の閃光が起こった」

さて、かくなる交霊会をハーンと共に成功させてきたウィリアムズですが、はたしてダーウィンたちを前にどれほどのパフォーマンスを発揮できたのでしょうか。

実のことを言えば、この日の交霊会は、その全容を描いた詳細なレポートが残されていないため、参加者の日記や手紙を通して、おおまかな断片的な状況しか知ることができないのが残念なところです。しかしながら、ウィリアムズが発揮したパフォーマンスが、少なくともチャールズ・ダーウィンに対しては、困惑させるに十分なものだったと言うことは分かります。1月18日の手紙の中で、ダーウィンは次のように書いています。

「それは暗闇の中でした。その間ずっとジョージ〔ジョージ・ダーウィン〕とヘンスリー・ウェッジウッドはミディアムの手と足を両側で抑えつけていました

あまりにも暑く退屈したので、これらの驚くべき奇跡、もしくは手品が行われる前に立ち去ろうかとわたしは思いました。

いかにしてその男はわたしの理解を超えたことをなしえたのでしょう。わたしは階下に降りて来て目にしました。すべての椅子、そしてテーブルの上の様々なものが、その周りに座っている人々の頭の上まで持ち上がっていたのです

仮にこのようなばかげたことをわたしたちが信じるはめになっても、神はわたしたちすべてに慈悲をお持ちでおられるでしょう。そこにいたF・ゴルトンは良い交霊会だったと言っています」

[Ed. Francis Darwin, The Life and Letters of Charles Darwin, Volume II (New York and London: D. Appleton and Company), pp. 364-365]

この日の交霊会を機に、ダーウィンがスピリチュアリズムへと傾倒していったという事実は、もちろんありません。しかしながら、そこで起こった現象になんとも居心地の悪さを感じていたことは間違いありません。

トーマス・ハクスリー(1825 - 1895)

それに対して、ダーウィンの不安を晴らすべく登場したのは、進化論の熱心な擁護者であるトーマス・ハクスリーでした。

ハクスリーは匿名で自分の正体を隠し、ウィリアムズの交霊会へと参加しました。もちろん、その目的はその真偽を明らかにすることでした。

その日の交霊会は、チャールズ・ダーウィン自身は参加しませんでした。その代わりに、ハクスリーと共に息子のジョージ・ダーウィンが参加しました。

そのときの出来事については、同年1月27日にハクスリー自身が書いた長文の詳細なレポートが残されています。ここではそれをもとにしながら、その模様を簡潔にまとめておきます。

[以下のハクスリー自身の交霊会の報告と引用はLeonard Huxley, Life and Letters of Thomas Henry Huxley, Volume I, pp. 453-454]

「部屋の中央には4本の足と2つの引き出しのついた『不安定で動きやすい』小さな軽いテーブルが置かれていました。

テーブルの周りには5人が座り、その上に両手を置き、お互いにつながり合いました。ハクスリーとジョージ・ダーウィンはウィリアムズの両側から、それぞれ彼の小指をしっかりと掴み、彼の両足の上にそれぞれ自分たちの足を載せる形となりました。

テーブルの上には、ギター、アコーディオン、紙のホルン、日本の扇子、マッチ箱、キャンドルを入れたキャンドルスティックが置かれていました。最初は、窓から入って来る光をそのままにしておいたので、部屋はやや暗い程度でした。その状態で三十分経ったが何も起こりませんでした」

次に雨戸とカーテンが閉じられ、完全な暗闇となりました。けれども、ハクスリーは「幸運なことにも、ドアの外の明りのついた通路から入ってくる3つの光の点を発見」しました。しかも、それはハクスリーにとって、隣のウィリアムズの動きを見張るためのポイントともなりました。ハクスリーは次のように書いています。

「さらにより幸運なことにも、これらの3つの光のポイントはわたしの目に対して参照のポイントとなった。〔中略〕そしてすぐにわたしは、仮にミディアムが彼の体を前後に動かすなら、わたしの3本の光線の1つは間違いなく隠されることが分かった。それゆえ、彼の足を確かめ、手をしっかりと握ることに注意する一方で、わたしは集中して自分の目をAとBの光線へと固定した」

しばらくは何も起こりませんでした。けれども、しばらくすると、ついにハクスリーの触れている方のウィリアムズの腕がビクビクと動きだしました。ハクスリーはAとBの2つの光線に注意を配り続けます。ウィリアムズの腕の動きが止まりました。そしてそのすぐ後、Aの光線が隠されました。次にBの光線が見えなくなると同時にAの光線が見えるようになりました。ハクスリーはこのときのことを次のように書いています。

「『ふむふむ!』わたしは考えた。『さて、ミディアムの頭はテーブルの上にあるな。今度こそは、われわれもなんらかの顕現を経験するだろう』と」

結果はその通りでした。すぐにアコーディオンは音を鳴らし、ギターの場所が動き、かすかにその弦の鳴る音が聞こえてきました。その間、Bの光線は見えないまま。やがてBとAの両方の光線は再び見えるようになりました。要するに、暗闇の中で見ることができないウィリアムズの頭が、テーブルの上の楽器に触れることで音を出したり、移動をさせたりしていたのではないか。それが見え隠れする光線からウィリアムズの動きを察知したハクスリーの結論づけたトリックでした。

実際、その光線のことをジョージ・ダーウィンが指摘した後、何も現象は起こらなくなりました。再び交霊会がスタートするときには席替えが行われました。ジョージ・ダーウィンはウィリアムズの隣を離れハクスリーの横に座りました。ジョージ・ダーウィンのいた場所には交霊会のホストを務めたY氏が座りました。すなわち、今度はハクスリーとY氏がウィリアムズの両側につくこととなったわけです

部屋は真っ暗にされました。すぐにウィリアムズは断続的に激しく体を揺らしました。すると、すぐに引きずる音が聞こえてきました。アームチェアはY氏の方に動いていきました。そして最後にそれはテーブルの上に乗っかりました。この間、ウィリアムズの隣にいたY氏は完全にアームチェアの動きに気を取られ、ウィリアムズの動きにはほとんど注意を向けていなかったようです(実際、後にアームチェアが近づいてきた時、ウィリアムズの腕に触れていたかどうか尋ねられて、そうではなかったと本人が述べています)。

一方、ウィリアムズの左手に触れていたハクスリーは、そのとき右手の緊張に連動するように左手の筋肉に力が入っていたことを感じました。当然のことながらハクスリーは次のように推測しました。ウィリアムズがアームチェアを足でY氏の方へと動かし、その驚きでY氏の注意は容易に逸らされ、最後にはウィリアムズは落ち着いてそれをテーブルの上に手で持ち上げたのではないかと。

このレポートの結論として、ハクスリーははっきりとウィリアムズに対して「いかさま師であり詐欺師である」と述べています。

このハクスリーのレポートは、チャールズ・ダーウィンを心からほっとさせるものとなったようです。1月29日、ダーウィンはハクスリーに感謝を込めた手紙を書いています。

「その交霊会はあなたを大いにうんざりさせるものだったでしょうけれども、それは本当に価値ある努力だったとわたしは思います。〔中略〕わたしの考えでは、今や単なるトリックを超えた何かであると信じさせるには莫大な重みの証拠が必要とされることになるでしょう」

[Francis Darwin, The Life and Letters of Charles Darwin, including an autobiographical chapter, volume III (London: John Murray, 1887) p. 187]

かくしてハクスリーの鋭い観察力によって提示されたレポートにより、チャールズ・ダーウィンのそこはかとない不安の種は無事に葬られることとなったのです。

交霊会で驚くべき現象を引き起こしていたこの時代の多くのミディアムが、数々の巧妙なトリックを用いていたことは事実です。もちろん、それが暴露された記録を読んだ後に、それをくだらない馬鹿げたものとみなすことは簡単です。

しかしながら、偉大な科学者たちですら翻弄された19世紀後半のミディアムたちの交霊会に、現代のわたしたちが、かりに参加したとして本当にそのトリックを見抜くことはできたと言えるでしょうか?

マジシャンの手品のネタを素人が見抜くことができないように、熟練したミディアムの技にわたしたちがいとも簡単に騙されてしまうということは、大いにあり得ることです。

「わたしはこの眼で見たし、実際に体験したから信じる」。それはミディアムシップの真偽を決することに関しては、まったく無効なのではないか

19世紀後半のスピリチュアリズムの歴史の中で起こった出来事を見れば見るほど、誰もがそう言わざるをえなくなるはずです。


(伊泉龍一)

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