臨済宗住職の平井正修さんの著書『花のように、生きる。』(幻冬舎)を読んで、そのことに気づかされました。
偶然成功することはあっても、偶然失敗はしない人はつい「成功は善で失敗が悪」と考えがちですが、そこに善悪の区別はないと言います。そして「失敗」のほうには、法則性があるのだそう。
偶然に成功することはあっても、失敗にそれはない。失敗したからには、必ず、どこかに原因があるのです。だから、失敗したときこそ、真摯にそれを受け止め、向き合っていかなければいけません。
(『花のように、生きる。』p174より引用)
失敗すると、「恥ずかしい」とか「隠したい」という気持ちが先に立ってしまい、きちんと向き合わずにすませてしまいがちですが、まずはその気持ちを切り替える必要がありそうです。
そして失敗には、必ず原因がある、ということであれば、それをきちんと分析できれば、必ず学ぶことがある、とも考えられます。
大きな学びがあるのは、成功より失敗のほうさらに本書にはオスカー・ワイルドの言葉も引用されていました。
「経験とは、みなが『失敗』につける名前のことだ」
イギリスの劇作家、オスカー・ワイルドはそういっています。身にしみる経験となり、より大きな学びがあるのは、成功ではなく、むしろ失敗のほうなのです。
(『花のように、生きる。』p175より引用)
たしかに、成功体験というのは、そこでもう終わったことのように思えてしっかり振り返ることがないかもしれません。それが偶然に成功したとすればなおさら、学びの機会は失われそう。
それに対して、失敗は、原因を突き詰めれば、成功への道筋がはっきりと見えそうです。そう思うと、一度失敗しておくことは何においても大切に思えてきます。
大人になればなるほど「失敗しそうだから、やめておこうか」といった発想になりがちですが、それは、学ぶ機会を逃してしまうこと。もったいないことなのかもしれません。
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