清らかなもので解毒できるものもあるけれど、清らかなものなんて見たくもないときもある。そんなときは、あえて思いっきり濃厚な毒に接してみませんか?
自分は賢いと思ってる人って、他人を条件とか上っ面でランキングするのに忙しくて、自分のことよくわかってないよね。でさ、自分のことわかってない人に、他人のことなんてわかるはずないよね。
(『徒然草』第134段を意訳)
そうそう、これ言ってみたかった! このオブラートに包まない毒の吐きっぷりに触れると、こころの底にわだかまっていた澱が少しだけ軽くなりませんか? これぞ毒をもって毒を制するというもの。
本当の負け組ってなに?続いては「わたし」に向けられる毒。
本当の負け組っていうのはね、だいじな事を後回しにして、どうでもいい事に手を出して時間をドブに捨ててきちゃった人のことだよ! それ、死ぬ前に気づいても遅いから!
(『徒然草』第49段を意訳)
図星すぎて胸が痛い......。強烈な毒ですぐに立ち上がれない......。でも毒にも薬にもならない優しい言葉よりも、こんな強烈なパンチが心地よいときもあります。
現代人に言われるとカチンと来ることも、700年前のおじさんに言われるとなぜかすがすがしい。これは、時空を超えた場所で「同じことを考えてたんだ」とわかり合える仲間と出会えた、そんな深い癒しの効果があるんじゃないかと、そんなふうに思えるのです。
以下に、『徒然草』の原文も掲載しておきます。
【134段】
賢げなる人も人の上をのみ計りて、己をば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、己を知るを、物知れる人といふべし。貌(かたち)醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、藝の拙きをも知らず、身の數ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非をも知らねば、まして外の譏りを知ら ず。たゞし、貌は鏡に見ゆ、年は數へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。貌(かたち)を改め、齡を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑にゐて身をやすくせざる。行ひ愚かなりと知らば、何ぞこれを思ふ事これにあらざる。
【49段】
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事をいふとき、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕(ちょうせき)にせまれり』とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げけり」と、禪林の十因に侍(はべ)り。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。
『徒然草』 吉田兼好(角川ソフィア文庫)より引用
[徒然草]
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