石井ゆかりさんの新連載がスタート。
日常にあるなにげない「言葉」をひとつずつ手のひらにのせて眺めてみる......そんなエッセイを石井ゆかりさんにお願いしました。今回の言葉は「家族」です。
MYLOHAS編集部さんから「お題」を頂いて書くコラム企画、
第2回目のテーマは、「欲望」。
欲望は一般に、悪いものだと思われている。
「欲求」ならば、睡眠欲や食欲など、生理的な現象で、だれにもあり、仕方がないこととされている。しかし「欲望」はそうではない。「欲望」は、過剰で抑えるべきものとされている。コントロールされなければならない危険な衝動だと考えられている。
だからこそ、私たちは自分の中に欲望を探し出すと、それを認めなかったり、閉じ込めたり、なかったことにしてしまう。
でも、現実にある欲望を「なかったこと」にしたとき、怖ろしいことが起こる、場合がある。
*
このお題を頂いて真っ先に思い浮かんだのは、映画「欲望という名の電車」だった。ヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド主演の、不朽の名作である。
ヴィヴィアン演じるブランチはアメリカ南部の裕福な農園に育った元英語教師だ。しかし家は没落し、家族も皆亡くしたため、妹ステラ夫婦の暮らすニューオーリンズへとやってきた。
育ちの良いブランチにとって、退役軍人のスタンリーとステラの下町での生活は耐え難いものだった。ステラは夫と深く愛し合っており、環境にも馴染んでいるが、姉に感化されて徐々に昔の良かった暮らしを思い出し、心を揺さぶられる。スタンリーはそんなブランチの振る舞いに我慢がならず、度々衝突する。
やがて、ブランチはスタンリーの親友ミッチとの結婚を望むが、実は彼女には決して明かされたくない過去があった。ブランチが故郷で不特定多数の男と関係を持ち、それが原因で教師の職を失ったことを知ったスタンリーは、秘密をミッチに暴露し、婚約は破綻する。
スタンリーはすべてを目茶苦茶にしたブランチに復習するかのように彼女を犯す。ラスト、ブランチは狂気の中で精神病院に送られてゆく。
*
ここから先は、私の個人的な感想だ。
ブランチは、理想の幻影を追っている。教養、上品さ、優雅さ、豪奢。彼女が思い描いているのは、上流社会の美しい生活だ。しかし、彼女は「欲望という名の電車」に乗っている。自分では認めないままに、スタンリーの性的な魅力に焦がれ続けている。スタンリーはブランチの皮膚に透けて脈打つ欲望に、たじろいでいるようにすら見える。
私たちは電車に乗っているとき、本を読んだり、携帯をいじったり、何か他の事を考えたり、車窓から外を眺めたり、眠ったりしている。電車に乗っているとき、私たちは、電車の動きをどうすることもできない。
ブランチの語る理想や教養は、「電車の中で本を読んでいる」のに等しい。彼女は本を読んでいるだけだ。しかし運命は電車のように、彼女を別の場所へと運んでいく。
ブランチは自分の欲望を認識していない。しかし、欲望はあたかも、降りることのできない電車のように、彼女を乗せてしまっている。欲望という名の電車は彼女を乗せ、ラストの性交まで連れて行く。隠された欲望がクライマックスに達した瞬間、彼女は「欲望の自分」と「理想の自分」へと、まっぷたつに断ち割られてしまった。そして、「自分」を失った。
彼女は自分の運命に対して、まるで無力だった。
*
ブランチの物語は、あまりに破壊的で極端なようにも思える。でも、それらは本当に私たちの日常から「かけはなれて」いるだろうか。
たとえば、「よかれと思って」人を傷つけたり、失敗したりすることはよくある。自らの正義を疑わない人、自分が善意の人間だと信じている人。そうした人々が驚くほど残酷なことを行う場面を、私たちは日常的に目にする。
なぜそんなことが起こるのか。
それは、正義の人たちもまた、自分自身の欲望という名の電車に乗っているからではないか。賞賛されたい、優越感を味わいたい、人に勝ちたい、人を攻撃し、傷つけ、支配したい。これらはすべて、私たちの誰にもある欲望だ。でも、私たちはそれを認めたくない。
認められなかった欲望は、やがて私たちを乗せる電車となって、私たちの運命を導いていく。「自分こそが正しいのだ」と信じながら、破壊に向かって突き進んでいく。
*
「本当に欲しいものはなんですか?」
この問いに本当に正直に答えることは、非常に勇気の要る、怖ろしいことだ。認めたくないものを認めるのは、身を切り裂くような苦痛をともなう。
でも、もしそれができたなら、ブランチが乗った電車は、どこかで止まり得たのではないか。これが、私の妄想だ。
(文・石井ゆかり、イラスト・山本祐布子)