vol.8でお話を伺うのは長野オリンピックスピードスケート500mの銅メダリストである岡崎朋美さん。学校の授業でなんとなく滑っていたスケート。いわゆる「エリート」ではなかったそうですが、徐々にスケートへの意識が変わり、オリンピックでのメダル獲得へとつながりました。岡崎さんは、どのように意識が変わったのでしょうか。
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岡崎朋美の言葉
「もうダメかもしれない」と思っても、心に引っかかるものがあるなら、続けてみることが大切。迷うなら、続けたほうがいい。だって、やめるのは簡単だから。
あこがれの先輩、橋本聖子さんの銅メダル
――岡崎さんが引退されてから4年が経過しましたが、平昌五輪では日本勢が素晴らしい成績を残しました。やっぱり、オリンピックを見ると力が入るところもありますか?
岡崎:選手たちのことをうらやましく思ってしまいますね。選手たちの笑顔を見ていると、私もあんなことをやってみたい、こんなことをやってみたいと思うんです。「私も一緒に滑りたい」と(笑)。
――今回は「意識が変わった瞬間」についてお聞きします。長い競技生活の中で、思い当たることはありますか?
岡崎:そうですね……。私はそもそもエリートではなく、スケートを始めたのも学校の授業がきっかけでした。生まれ育った場所(北海道斜里郡清里町)の土地柄として、スピードスケートには小さい頃から慣れ親しんでいたのですが、「勝ちたい!」という感じで滑っていたわけでもなくて。
冬になればスケートをやって、夏になれば陸上をやるという生活の中で、走れば速いのに、スケートシューズを履いた途端に遅くなることが理解できなかったんです。「なんで?」「どうして?」と思いながら、その解決策を見つけられずに続けてきたという感じでした。競技に対する意識が変わったのは、社会人になってからのことですね。
――釧路星園高校を卒業後、名門・富士急行スケート部に加入しました。
岡崎:はい。チームメイトには、当時、日本女子スピードスケート界の第一人者として活躍していた橋本聖子さんがいました。私はチームのレベルについていくの精いっぱいで、最初の1、2年は、それほど大きな目標も持てないまま滑っていた気がします。
そんな私の意識が変わるきっかけになったのが、1992年のアルベールビル五輪でした。ただ応援するためだけに現地までオリンピックを見に行った私の目の前で、1500メートルに出場した聖子さんが銅メダルを獲った。その光景が目に焼きついて、「私もオリンピックに出場したい!」と思いました。
アルベールビル五輪には、私と同い年の選手も出場していました。女子なら島崎京子さんと上原三枝さん。男子なら500メートルで銅メダルを獲った井上純一くん。だから、「みんな“あっち側”にいるのに、私だけ“こっち”!?」「同じ年齢、同じ人間なのに、どうして!?」という思いがわいて「私だって!!」と思えたことが大きかった。
――“見に行った”アルベールビル五輪を気に、選手としての意識が変わったんですね。
岡崎:はい。日本に帰ってからは、トレーニングのやり方を変えました。監督に出されたメニューに対しても「なぜそれが必要なのか」「どういう意図があるのか」を考えるようになり、わからなければ監督に聞きました。
そういうことを考え始めると、“身体の使い方”に対する意識も変わり、それまでできなかったことが少しずつできるようになる。オリンピックという舞台を間近で見たことで、その興奮と感動を肌感覚で味わって、考え方が変わったんですよね。
――メダルに対する意欲も高まったのですか?
岡崎:いえ、その頃はまだ、とにかく「オリンピックに出場したい!」という気持ちしかなかった気がします。ホントはダメなんですけど、それまではオリンピックに出場することすらほとんど考えたこともなかったんですよ。「自分にはあまり関係ないか」という感じで(笑)。
私、こう見えてもスポーツに関してはなんでもそこそこできるほうだったんです。陸上も、卓球も、バドミントンも、バレーボールも。だけど、スピードスケートに関しては最初から全然ダメ。腰は高いし、カーブはパタンパタンと足を動かす感じでうまくできないし、屈辱的に感じてしまうくらいでした。だからこそ、攻略したいと思ったんでしょうね。
――子どもの頃からかなりの負けず嫌いだったのでは?
岡崎:そうですね。ライバルはいつも男子。勝負に勝って、男の子が泣く姿を見るのが楽しくて(笑)。
500メートルで、聖子さんに勝った!
――アルベールビル五輪は1992年。岡崎さんは20歳でした。
岡崎:本当に少しずつ、まずはコツコツと自己ベストを更新していくことを目標としていました。スピードスケートの場合、“滑るリンク”と“滑らないリンク”があんです。だから、それぞれに対して自分の目標タイムをクリアすることに一生懸命でした。20歳前後の頃はそれができていたので、着実に向上しているという感覚はありました。
――競技に取り組む意識が変わったことで、周りの目も変化したのでは?
岡崎:それまでの私は先輩たちに対する遠慮もあって、指導者に対しても「私はいいですから、先輩たちを見てください」という感じだったんです。でも、アルベールビル五輪を見てからは、指導者の皆さんに言われなくても自分で積極的に取り組むようになりました。
そうなると、指導者の皆さんとしては、逆に「もっと指導したい」と思うようになるんですよね。いろいろと助言していただくことも増えて、それに対する私自身の反応も結果も良かった。すごくポジティブな循環に入っていった時期でした。
――橋本聖子さんに対しては、どんな意識を持っていたのでしょう。
岡崎:もちろん、やっぱり“憧れ”から“目標”に変えていかないといけないという思いもありました。聖子さんは本当にすごい選手でした。当時、“世界”で勝つことは、いろいろな意味でいまよりずっと難しかったはずなんです。小柄だけど本当にストイックで、しかも、短距離、中距離、長距離をこなすオールラウンダーを目指していた。私が社会人になったばかりの頃は、本当に憧れの選手でした。
力の差は大きかったので、少しずつでも追いつけたらいいなと。まずは500メートルで勝ちたい。そういう気持ちを持っていた気がします。
――初めて出場した1994年のリレハンメル五輪。代表権を獲得したのは橋本聖子さんではなく岡崎さんでした。
岡崎:私は、オリンピック直前に行われた代表選考会の一発勝負に懸けていました。そうしたら本当に、500メートルで優勝することができたんです。当時は「一発屋」なんて言われたけど、勝ちは勝ち。代表選手の発表はまだ先のことだったけど、心の中では「よし!」と思っていました。
一方で、500メートルの代表権を逃してしまった聖子さんに対する複雑な思いもありました。もちろん聖子さんは他の4種目で代表権を獲得していたから、「聖子さんと一緒にオリンピックに行ける!」といううれしさはある。500メートルではたまたま私がトップになったけど、自分ではメダルを争えるような選手ではないとわかっていたから、「私なんかが500メートルの代表になってしまって」という思いもあって。
――迎えた本番。500メートルは14位という結果でした。
岡崎:本番が始まれば、大会前に感じていた複雑な思いはどこかに行ってしまいましたね(笑)。「聖子さんと一緒にオリンピックの舞台に立てた!」という喜びしかありませんでした。
500メートルは14位という結果でしたけど、自己ベストを更新することができたので「私もできるじゃん!」と思っていたんです。
長野五輪、銅メダルの舞台裏
――リレハンメル五輪から4年。1998年の長野五輪で、岡崎さんは一躍メダル候補として大きな注目を集めました。
岡崎:ワールドカップに出場するようになってから、少しずつ手応えを得られるようになっていました。500メートルでは世界の舞台でも上位に入れていたし、4位、5位を争っていた時期を経て、一気に、2位、もしくは優勝を狙える位置につけられるようになった。それからは、ほとんどの大会で表彰台に上がれるようになっていたのである程度の自信もありました。
ただ、1997年に“事件”が(笑)。スラップスケート(1997年から急速に普及したスケートシューズ)が登場するんです。
――そうでした。長野五輪の前後は、スラップスケートの話題で持ち切りでしたよね。“高速シューズ”の普及によって、一気に時代が変わったというか。
岡崎:そうなんです。長野五輪のちょうど1年前のことで、私は対応に苦戦しました。通常なら、前のシーズンが3月末くらいに終わって、4月は陸上トレーニングをして、5月から合宿に入るんです。でも、あの年はシーズンが終わったらすぐにアメリカのミルウォーキーに移動して、スラップスケートの対策に努めました。
――そう考えると、あれだけ期待された長野五輪の500メートルで銅メダルを獲得できたことが、改めてすごい。
岡崎:達成感というより、安堵感でいっぱいでした。私の場合は1年前から代表内定をいただいていたのに、スラップスケートへの対応に苦戦して、ギリギリまで「ヤバい!」という感じの状況が続いたんです。約1年かけてスラップスケートの調整を続けてきて、「ようやく合い始めた」と感じられたのが本番2週間前。
だからこそ、銅メダルを獲得できたことで、本当にホッとしました。もし、スラップスケートの普及が“長野後”だったら、もう少しいい色のメダルを獲れたかも……な~んて、そんなことを言っても仕方ないですよね。時代の流れです(笑)。
――リレハンメル五輪は14位。長野五輪は3位。成長の要因はどんなところにあったのですか?
岡崎:私の場合、持ち味はスタートダッシュにありました。小さい頃から陸上競技で養っていたので、100メートルの通過タイムは世界トップレベルの選手よりも速かった。でも、コーナリングがとても下手で、最初のストレートを過ぎると一気に失速するんです(笑)。
そういう意味では、伸びしろがたくさんありました。体力をつけて、あまりにもおそまつだったコーナリングの技術を磨いて。聖子さんのようなオールラウンダーではないので、長距離を練習する必要がなく、短距離のトレーニングに集中できたことも大きかったと思います。トレーニングを積むほど自分でも気になることが増えてきて、体幹の使い方を学ぶようにもなりました。それを機に、タイムは縮まりました。
やっぱり、エリートじゃなかったからこそ、学んで、吸収できることがたくさんあったんですよね。年齢や経験を重ねるごとに「わかった! こうすればいいんだ!」と思えることが増えていって、それがおもしろかった。私、だからなかなかやめなかったんだと思います。
心に引っかかるものがあるなら、とりあえず続ける
――今回ぜひお聞きしたかったのは、まさにその点です。岡崎さんが現役を引退されたのは42歳の時。長野五輪後も、2002年ソルトレイクシティー五輪、2006年トリノ五輪、2010年バンクーバー五輪と、計5度もオリンピックに出場しました。私自身、いち視聴者としては、正直に言えば「どうしてこの人はやめないんだろう」と思っていました。
岡崎:きっと、みんなそう思っていたはずですよ(笑)。
私が思うのは、スピードスケートって、基本的には“ひとりの世界”なんです。相手に勝つ、負けるというのはもちろんあるけど、それは結果論で、「自分がいかに速く滑るか」を追求するしかない。自分の能力をどれだけ引き伸ばせるか、どれだけ発揮できるか。それだけなんです。
そういう意味では、30歳を過ぎても自分の中では「まだ動ける」という感覚があったし、自己ベストを出せると思っていました。その結果として、日本でも、世界でも、勝負になれば十分に戦えた。だから、「やめる理由がなかった」というのが正直なところでした。
もちろん、オリンピックに出場すればメダルは欲しい。だから目標にはします。でも、スピードスケートは“ひとりの世界”だからこそ、その時の自分の速さも、相手の速さもわかりますよね。ということは、本番前にはだいたいの順位も見えてくるところがあって。そう考えると、なおさら“自分との戦い”に挑むことがおもしろかったんだと思います。そうじゃなかったら、あの年齢までやらないですよね(笑)。
――周りの目や発言が気になることはありませんでしたか?
岡崎:私の場合は、もう、全然。
たとえば、ワールドカップでは出場選手のリストが配られるんです。名前の隣にはカッコ書きで年齢が書かれていて、20代がほとんどの中で私だけ「(40)」と書いてある。「この数字、いらないでしょ!」と思いながらも、私にとってはモチベーションになりました。「40歳だって、まだまだできる!」というメッセージを伝えたいという気持ちも、少しはありましたから(笑)。
だから、記者のみなさんに何を聞かれても、イラッとすることなんて一度もありませんでした。引退について聞くようなニュアンスの質問を受けた時は、「私のこと、やめさせたいんですか?」と笑って聞き返していたくらいですから(笑)。記者さんのほとんどが顔見知りだったので、やり取りを楽しんでいたんです。スピードスケートはマイナー競技だったから、どんな内容でも取り上げてもらえることがうれしかった。私は常に「なんでもいいから記事にしてください!」という感じだったので、監督からはよく「しゃべりすぎだ!」と怒られました。
――1992年のアルベールビル五輪を“見に行っただけ”の選手が、その後、5大会連続でオリンピックに出場するすごい選手になりました。キャリアを振り返って、改めて思うことはありますか?
岡崎:長野五輪後、2000年に椎間板ヘルニアを患って、「スピードスケートをやめるなら手術しなくていい」と言われたことがありました。でも、同じケガで復活した選手がいないと聞いた瞬間に「誰もやったことがないなら、私がやる!」と(笑)。
しかも、次のソルトレイクシティー五輪は、世界記録がバンバン出る高速リンクだったんです。だから、なんとしても出場したかった。たぶん、世論としては「それで終わり」という感じだったと思うんです。
ある野球選手が「ケガは6年で完治する」と言っていて、私にとってはトリノ五輪が開催される2006年が、椎間板ヘルニアを患ってちょうど6年でした。だから「もう一花咲かせたい!」という気持ちになって、引退なんて考えられなかった。それに、イタリアだし、気分もイタリア……なんて(笑)。
もちろん、2010年のバンクーバー五輪も含めて、自分がオリンピックに5回も出場するような選手になるとは思っていませんでした。ひとつのことに集中できたことは本当に良かったと思うし、途中で首をかしげることもあったけど、続けてよかったなって。やっぱり、「もうダメかもしれない」と思っても、まだ心に引っかかるものがあるなら、とりあえず続けてみることが大切だと思うんです。迷うなら、続けたほうがいい。だって、やめるのは簡単だから。
私、本当は飽き性なんです。スピードスケートをこれだけ長く続けられたことに自分で驚いているくらい。だからこそ、なんの後悔もありません。だって、本当に納得できるまで、滑ることをやめなかったから。
岡崎朋美
1971 年北海道生まれ。富士急行スピードスケート部に所属し、1998 年の長野オリンピックでは堂々の 3 位入賞を果たし銅メダル獲得。「朋美スマイル」というキャッチフレーズとともに、日本女子スピードスケートのエースとして世界に知られる存在となる。2002年のソルトレイクシティオリンピックで当時の女子 500mの日本記録を樹立し、2005年 1 月には通算 7 度目となる日本記録更新を達成するなど、女子スピードスケート界を牽引する選手として不動の地位を築く。2006 年のトリノオリンピック、2010 年のバンクーバーオリンピックと 5 大会連続で出場した。現在、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属し、さまざまなメディア、スポーツイベント、講演活動で活躍中。
写真/千葉 格 取材・文/細江克弥
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