東京を捨てて、夏は海のある静岡の御前崎で、冬は長野の白馬で、パートナーとともに新しい暮らしをはじめた野崎さん。ファッションスタイリストとしての仕事が減ることも、覚悟の上での決意でした。
東京と地方で暮らす大きな違い「それでもサーフィンとか、アウトドアのテーマでお仕事をいただいてりして。趣味とつながりつつも、でもやっぱり、前のようには忙しくなくて。それはそれで、まぁいいかなと思って」
そう、どこかのんびりとした口ぶりなのは、地方は生活するのにお金がかからない、ということがあるようです。
「お魚を漁師さんからもらったり、野菜は自分で育てたものもあれば、いただくこともいっぱいあるし。みんないい人なんで、たくさんいただくんですよ。子どもがいるわけでもないですし、彼とふたりで迷惑かけないように生きていけて、ちょっと何か買うことができれば、そんなに困らない」
もう、しゃにむに働かなくたっていい。野崎さんにとって、今までとは真逆の生活ペースでした。
「海入って、朝ごはん食べて、畑やって、昼ごはん食べて、海入って、夕ごはん食べたら、1日が終わっちゃう」
まさに憧れの田舎暮らし!
「いや、だめだめですよ~ほんと、昼寝とかしちゃうし(笑)」
今のままでもいいけれど、何かしなきゃかなぁ。そう、ぼんやり考えていたある日のこと。彼に「なんかやりたいことないの?」と問われ、自分でも思いがけない言葉が、口をついて出たといいます。
「コーヒー屋がやりたいって。自分でもそんなに強く思っていたわけじゃないのに、聞かれた時、そう答えちゃったんです」
思わず口に出たことでも、本気で取り組む性格以前からコーヒーは大好きで、東京でも、どんなに忙しくてもちゃんと自分でドリップして淹れる。移住してからも他の買い物は地元で済ませるのに、コーヒーだけはわざわざ、どこかまで買いに出かけていたという野崎さん。
やると決めたからにはリサーチを開始。学校に通う? 資格を取る? さまざまな考えが行きつ戻りつするなかで、結果たどり着いた答えは、1から独学ではじめること。
「何十万と学校に通うのにかかる分のお金で、いっぱい失敗したほうがいいかな、と思って。とにかくやってみようと」
さっそく小さな手回しの焙煎機を手に入れ、トライ&エラーを繰り返す日々。
「最初何分、あと何分っていうのは調節してやってたんですけど、すごい失敗して。コーヒー嫌いになるかと思うくらい、まっずいのも飲みました。それっぽくはなるんですけど、中は火が通ってなかったりとか」
ただし、野崎さんの何よりの強みは、自らの舌。自分が求める味の、明確な基準があることでした。
「自分の好きな銘柄で、好きな焙煎で、好きな味にあげてくれるところには、なかなか出会わないのが、いつもジレンマだったんです。『この豆で、もうちょっと深かったらものすごい好きな味なのに』と、飲みながら思っていた。そんな気持ちもあって、できるかもと思ったんですね」
コーヒーを媒介に、自ら掴んだ地方での居場所白馬の自宅はスノーボードショップも兼ねており、日々来てくれるお客さんにもコーヒーをふるまいはじめます。
「これなら人にも出せるかな?と思った時があって、ちなみに「200円」って書いたんですけど、とたんに人は200円を払ってくれるんですね(笑)」
それって当たり前なのでは......と思うものの、それが野崎さんにとっては大きな衝撃だったといいます。
「お金をいただくというのは、すごいことだなと思いました。タダで提供している時とは自分の気持ちも全然違って、いただくからには、もっともっとつきつめなきゃいけないって思うようになりましたね」
もともと研究心が旺盛な性質に、さらに火がついた野崎さん。日々焙煎に没頭するうち、自分でも「おーーっ!」と思えるような味にめぐりあえるようになりました。そんな頃、思いがけない運と縁がつながり、御前崎でお店を出す話がとんとんと進みます。
「海つながりで仲良くなった鷺坂製材という製材所の社長さんがいて、製材所の敷地に使っていない元職人さんの休憩所だった小屋があって、以前から「ここ、いいなぁ」と思ってたんですよ。で、そのことをふと話したら『あっ、あそこ使ったらいいよ。コーヒー屋やったらいいじゃん! って言ってくれたんです。向こうから。それはもう、この地域ならではのことで。ほんとにいい人とめぐりあったなって」
製材所から譲り受けた古材を使って、彼がほぼD.I.Yで内装を完成。また海であいさつするだけの知人たちとコーヒーを縁に仲良くなり、いつのまにか木工クラブを結成。コーヒーメジャーやミルのふたなどの道具も仲間と一緒につくるように。そうしてお店として、だんだんかたちになってきました。
「友達もたくさんできました。地域のマルシェに出店するとまたつながりもふえて、同じく出ていたカフェの人がうちのコーヒーを扱ってくれたり。御前崎のサーファーの子達が、今度は白馬にスノボードに来てくれたり」
コーヒーを媒介に地域に溶け込む、だけでなく。地域同士の橋渡し的な役目も果たしている。スタイリストとはまったく違う仕事、生き方だけど、野崎さんをまんなかに、大きくふくふくとした循環が生まれようとしています。
「今、スタイリストの仕事をしたら、ノロくて超使えないやつだと思いますよ(笑)。やっぱり、そんなには追われてないんで、ストレスもないですし、スピード感が全然違う。もう東京には二度と住めないです。やっぱり東京って、何かをしなくちゃいけないじゃないですか。お金もいるし、時間もいる。今はほんとに......ほんとになんか、しあわせな感じです。やってよかったなと思います」
野崎美穂さん(ファッションスタイリスト・GOOD DAY COFFEE店主)
大分県別府市出身。大学卒業後、スタイリストの道へ進む。1991年にスタイリストとして独立。現在は春から秋は御前崎、冬から春を白馬乗鞍にて過ごし、スタイリスト、コーヒー事業、スノーボードショップ運営の手伝いなどをこなしている。GOOD DAY COFFEEのFacebookはこちら。Instagramはこちら。
撮影/石阪大輔 取材・文/山村光春(BOOKLUCK) 協力:YAMATWO