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標題=1984年のためのチューニング4/画面
掲載媒体=ロッキングオン58号
発行会社=ロッキングオン社
執筆日=1980/02/03
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画面
●TVの画面には、映っているものだけが映っているのではない。映しているものも映っている。北国の海辺が映っているとすると、北国の海辺を視ている、ある個人の視線も映っている。
●このことはダラダラしたTVの視方をしているとつい分らなくなってしまうので、時々、自分自身の視線をチューニングした方が良い。
●方法は簡単。まずカメラを用意して、TVの前に、固定し、ファインダーを覗きながらTVの画面を視る。最初は映ってる風景しか見えないが、そのうち、自分の視線がTVカメラマンの視線とダブる瞬間が見つかるはずだ。その瞬間を後は自覚的に追うようにする。
●ぼくはTVに対して作品論的な充実を望んでるわけではないのです。ただ、世界のあらゆる風景と、ぼくの個人生活をつなげてくれる窓としてのシステム充実を望んでいる。書斎みたいなところにTVを設置して、本を読むようにTVを見ようとすると、作品的にはどんどん質が落ちてるから実際にTVのスイッチは切られたままになる。(いや、これは番組の質が落ちたというより、ぼくらの視線の質が向上したというべきで、TVが番組作品としてつまらなく感
じてきたことは進歩といってもよいはずだ。先日、「少年ジェト」をTVでやっていたけど、その番組構成のスカスカなことテンポがのろまなこと、つまり作品としての情報密度がおっそろしく低いことに呆れた)
●TVが作品を飾る額縁ではなく、単なる風景を流すだけの窓になっていくときTVは書斎から、台所とか便所だとかいう空間に移される。向いあって見る必要はない。ただ、単なる風景が流れていることを感じさせてくれれば良い。
●<面白くもなんともないメディア><面白くもなんともない世界>……というのが、ぼくなんかのかなり最終的にイメージしてる世界なんだけど、現実的に今は<見せる側>と<見る側>が完全に分離してお互い好きな見方をしてるだけだから、とりあえず、TVを見るぼくらの視線を、見せる側のそれに重ねてみることが、ひとつの確認になるのではないか。
●いってみれば、自分のカメラをTVカメラにつなげてしまう、TVカメラが見たものを自分のカメラで見てしまう……TVカメラマンは、自分にとって、ひとつのレリーズの先っぽと思ってTVを見ると良い。わざわざ京都に行くこともアラスカに行くこともない。そこに居る人の眼球を使って、自分が見れば良いのだ。旅というものが個人的なものではなく情緒的なものとなる。それは別に具体的な風景だけではなく、内面の葛藤っていうんですか、モロモロの感
情の起伏も、やがて情報的に体験するようになれるだろう。どう考えても、恋愛感情のゴタゴタみたいのを人類が滅亡するまで続けていかなければならない、なんて思えないよ(もちろん、そうなるためには個々の人間が、それなりの夜を通過してきたと同じだけの”強さ(よわ)さ”を持つことが前提だけど)。
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橘川幸夫放送局通信
橘川幸夫
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