橘川幸夫放送局通信

無題/ROCKIN’ON 創刊号(1972年夏)に書いた原稿

1972/06/09 09:43 投稿

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ROCKIN’ON 創刊号 p30-31
無題

 <ロックとは何か?>を問う力量も問題意識も欠けている僕は<何故ロックか?>を問う事になる。何故ロックであってジャズではないのか。何故エリック・クラプトンであってマニタス・デ・プラタではないのか。時代の圧倒的な奔流の中で僕はロックという偶然性に身を委ねたのに過ぎないのであろうか。

 ロックには風景が必要である。あるいは僕にとってのロックとは音を含めて風景そのものであったのかも知れない。音楽とは時間の流れの中に虚構を創り出す意思でありロックとは暴力的に僕たちの裡に流れる時間の川を遮断してしまう物理的音楽であった。しかしミエミエの<暴力>に素直にのり切れない僕にはもうひとつ空間的虚構が必要であったのだ。しかしその虚構も亦ミエミエである事はハナから納得していたのだが僕はとりあえず惚れた。僕と同様に時間的虚構をロックに求めながら場的虚構をある人は野音に、ある人は吉祥寺や六本木に風景として位置したのだろう。

 一九七〇年夏新宿。<ソウルイート>に僕はどっぷりと浸っていた。二階の不健康な空間と壊れた音量は僕の違和感を超えて麻薬のように僕を吸い寄せた。僕の知る限りでは一番巨大な音量を持つロック喫茶であったが客は皆音にしがみつくように全身でロックを甘受していた。ソウルの定住者は殆どフーテンであったが僕はフーテンですらもなかった。

 僕は彼らの無政府的な秩序が好きだったけど彼らの側からは僕などはどうでも良かったのだろう。野音等のコンサートでいつも最前列でラリッて一般のひんしゅくをかうのは彼らであった。店の閉まる深夜まで僕は壁に押し付けられるようにして座りっぱなしだった。

 ロックがコミュニケートの音楽などという伝説はデタラメで僕はロックにのる程につれてますます孤立して行くばっかりだった。うつむいて殻に逃げこむように体を震わしている多くの客の中には僕のような人間が何人も同時にいたのに違いない。だが皆んな他人だ。

 <新宿は河
  だが 海というところには着かない>

 永山則夫がこう書いた時彼も<海>を渇望しながら新宿というどぶ河に流され続けていたのだ。新宿というのは妙な街だ。それは必ずしも新宿でなければならない事はないのにそれはいつだって新宿なのだ。一九七〇年。危険な一七才も狂気の一九才も既に成人式だ。

 ソウルというよどみに浮かぶ泡沫は頽廃というのにはあまりにも明かる過ぎた。ボンド・マリファナもどきの煙草。大麻の製造法がガリ版で配られたりした。踊りながらトンボを切る男。東北出らしいフーテンがロックの流れる中で故郷の民謡を唄い出す。ワルノリ。スピロヘータと精虫が蠢く便所。両性具者。ボンドをやりながら幼児のように泣いている太った女。巨大な音量の中を表情もなく経哲を読んでいるどもりの少年……一体僕は何を語りたくて語り始めたのだろう。永山則夫は<河>と真剣に対決したが故に今殺されようとしている。しかし僕は今にも崩れおちそうな時間の壁の下でそれでも何事でもないかのようにあたかも慣れたかのでもあるように<>の透り過ぎるのを待ち続けなければならないのだろうか。

 音楽に国境はないというのはありふれた幻想であろう。ロックとは所詮外来文化であり僕の血の外側にあるものだ。恐らくロックを日常的な瞬間に口づさめないという事は致命症である。ロックは確にインターナショナリズムであるのだろうが酒を飲んで唄えないインターナショナリズムに何の意味があろう。僕にとってロックとは行為そのものであった。しかしそれは代償行為であったのだ。例えば<アラーの他に神はなし>と言ってみろ、という恫喝は理念的には正しいし<アラーの他に神はなし>と応えてしまう事も恐らく心情的に正しい。しかし現在、勘違いは抜きにして<ロックの他に神はなし>と言い切れるだけの主体的力量を持った者が僕たちの中にいるか。せいぜい<ロックの他にも神はなし>と消極的に言う位のものではないか。生まれた時が悪いのかそれとも俺が悪いのか、どちらでも同じ事だ。

 こうした世界で僕は確実にロックの内部に居た。僕の内部にロックが居た。洗練されたロックという言葉がふざけたパラドクスに聞こえるようにロックとはハードで汚れたものであるというのが僕の認識であり前提であり偏見である。ロックの内部は巨大なボリュームの包囲の裡で空虚ですらある。それは関係の沈黙であった。ロックは孤人で聴くものでも大勢で聴くものでもない。大勢の中の孤人として聴くのだ。だからロックを聴くなら眼をつぶれ。ロックの見えない周波が闇の中で見えない像を現わす。

 一九七一年夏。グラファンが来日する直前にソウルは潰れた。外ではロックミュージッシャンの来日で企業ベースのロックブームであったが僕は自身の内部にロックの死骸を確認しながらシラケていた。もとより僕はロックに何かを求めたのではないのだからシラケたのはロックの側ではなく僕の問題である。これはロックの単なる新陳代謝、世代的ブレに過ぎないのだろうか。僕たちがロックにのりロックにシラケたという事は実に健康的に過ぎる程に自然であったのだろう。残念ながらそう思うしかない。最早僕はロックに浸る事なくロックを鑑賞するのである。

 書く事とロックとの間には決して越えられぬ距離がある。書く事は否応なく音を奪う。ロックは書くといった作業を拒絶した地帯にありうるし書くという事は逆にロック性をあくまでも意識的に凝視した地帯ででしか成立しない。意識は極限化すると狂気になるが感性は極限化すると白痴になるのである。シラケとは中途半端の事であり、良く言ったとしても過程である。ロックを超えようと思えば思う程ロックそのものが見えなくなるというのがロック批評の困難性であろう。それは即ち音楽批評の困難性であろう。ロックが言語ではないという事が言語の批評をどこまでもあやうくする。ロック批評は一体誰に語りかけようというのか?一体何に語りかけようというのか?

 最後にある批評家が若い時書き記した言葉を引用します。

 「僕は絵画・音楽が好きだ。だが画家や音楽家は好きではない。これは例外なく言へるかも知れないと考えてゐる。絵画論と音楽論だけは真の批評家が成すべきでない唯二つの芸術分野である。何故ならこの二つの分野で思想の制作との繋りは最も稀薄であり、画家や音楽家で制作を分離して批評するに値する思想を持つ者は皆無と言ってよいから」。

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