橘川幸夫放送局通信

「穴祭り 第1話」 斎藤雄一郎

2012/11/25 14:20 投稿

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今住んでいるアパートの床に、穴が開いてしまった。
 と、書くとなんだか、安い物件の薄い床板が抜けてしまったような印象だが、実際に、物件は安く、床板は薄いので、そこは否定しない。
 ただ、とても深い穴だった。

 これに気付いたのはある週末の早朝。
 登山のためにこしらえたお結びを一つ落として転がっていった先に、あった。
 お結びは見事にホールイン、耳を澄ましたがお結びころりんスットントンの声は聞こえはしなかった。
 その代わりに、遠くから風の音が聞こえた。
 穴の形は万丸で、その時は直径20cm程度、淵はやすりで磨いたように、滑らかだった。
 覗き込んでも、深く真っ暗闇で、底は見えない。

 ただ、不可解なことにここは2階建ての木造アパートで、下の住人の声はよく聞こえるし、こちらの足音もよく聞こえるらしい。
 たまに、音量が大きいあれこれに対して、長い棒のようなもので、抗議の突き上げがくる。
 それなのに、この穴のことでまだ何も言われない。
 今も床の下では、生活の音がするし、さっき、お結び以外にも、深さを計るため、ボールやコインを落としたりもしたのにも関わらずだ。
 いや、大体この穴の暗さは異常極まる。
 夜だってもっと明るい。
 半日覗いたり、悩んだりして過ごし、暫く様子を見ることに決めた。
 登山は流れたけど、どうせ一人だったし、最近、飽きていたから気にならなかった。
 それよりも、ちょっとしたこの非日常に興奮した。
 その日は寝る前も眺めてしまった。

 穴から漏れる風の音が、遠い富士の風穴を思い出して、心地良かった。

 翌朝、穴の深さを図るために、ホームセンターから50mの巻尺を買ってきた。
 これの先に重りとして、水を入れたペットボトルを結わえてそろそろと下ろしていく。
 2m、3m、5mもう地面より低いが、まだ着地しない。
 10m、12m、15m、20m!
 25、30、40、、、50m、これ以上は測れない。
 50mといえば、南極の氷がすべて溶けた時に上がる海面の高さ位か?
 ピンとこない。
 とにかくとても深いってことだ。
 勇気を出して、腕をつけ根まで突っ込んでみた、冷んやりとして気持ちいい。
 側面をこすると黒いススのようなものが指先についた。
 コーヒーの香りがして、舐めてみると、ほんのり甘かった。

 それから、数日観察を続けると、どうやらその穴は、徐々に大きくなっているようだ。
 10日ほど経つと直径は25cmになっていた。
 そして、もう一つ不思議なのはこの穴の奥をじっと見つめていると、とても心が落ち着いた。
 抜けるような青空という言い方があるが、これは、本当に抜けた穴で、その果てのない漆黒には、日常のいいこと、つらいこと、様々な感情が溶け合って、吸い込まれて行き、フラットになれる。
 このおかげで、この穴が空いてからの毎日はとても心が落ち着いて充実したものになった。

 おかげで、仕事も落ち着いてこなせるようになり、余裕が生まれたせいか、笑顔が増え、職場で同僚に話しかけられることが増えた。

 僕は段々、このことを人に話したくなってきていた。

 ある日、会社の飲み会の同席に思い切って話して見た。
 だけど、反応はだいたい同じ。
 最初はアパートの管理会社に、連絡した方がいいと言い、穴の素晴らしさを語ると、心配されるばかりか、精神科を紹介される始末だった。
 まあ、そんなものだろうとは、思っていたが、思いのほか、こういう非日常的な出来事を煩わしいと感じる人が多いのだなと、変に感心したりもした。

 そんなわけで、これはあまり人にいうことではないと思い、やめてしまったが、一人、同僚でやけに食いつきのいいのがいて、顔を合わすたびに穴の大きさや、形、本当にそんなに深いかなど、聞いてくるので、思い切って家に誘ってみると、あっさりOKしたのには、面食らった。
 その人は、片桐 早苗という同期の女で、仕事を一緒にしたことは一度もなく、普段、口を利くことはあまりなかった。
 長髪に眼鏡。落ち着いた色のスーツを着ているが、さりげないアクセサリで地味にならないようにしていて、ファッションのセンスは、なかなかいいと思う。
 普段は黙々と仕事をしているが、男女問わずフランクな会話も交わしているようで、人気があるタイプだ。
 いつも疲れた感じの自分の人生と、僕とはまるでタイプが違う、片桐 早苗という女の人生がこんなことで交わるものなのかと、また感心させられた。

 次の週末の昼下がりに片桐 早苗が家にやってきた。
 まず、廊下のない2DKの我が家では、玄関に入るなり、穴が目に入ることになる。
 「いらっしゃい。」
 「おじゃましまーす。うわぁ、これかー、ほんとおっきいねぇ…。」
 しばらく、呆然としたようにその穴を見つめていた。
 なぜか体が少し震えていたように見えた。
 「どうぞ、上がってじっくり見たら?」
 「え、うん、そだね。」
 二人で穴の前に座り込み、ずっと見つめていた。
 「どう?」
 「うーん、ほんとに深いねぇ。それにおっきい。」
 そのころには、穴の直径は1m近くになっていた。
 それから、片桐 早苗は僕の言われるがままに、手を入れてみたり、側面を触ったりした。
 手についた黒いススは、僕が感じたコーヒーの香りはしなかったようだが、メロンの香りがすると言った。
 それから、じっと穴の奥を見つめたまま、黙ってしまった。
 僕はここでちょっと心配になってきた。
 もし、彼女がこの穴を見ても、僕が感じるような特殊な感覚を得られなかったら、この後、どうすればいいのだろう?
 なにせ、ここ数年、この部屋に人を呼んだことなどなく、どうもてなしていいかまったく分からない。それとも、すぐ帰るのかな?
 この時ばかりは、穴の漆黒をもってしても、フラットではいられなかった。
 いや、フラットだからこそ、これくらい冷静に考えて、配慮する余裕が持てたのかもしれない。
 「あ、そうだ、うっかりしていた。コーヒーか紅茶でもどう?」
 「…。」
 返事はなかった。
 ここで、僕は片桐 早苗の様子がおかしいことに気がついた。
 明らかに震えている。
 「大丈夫?」
 「…。」
 「片桐さん?」
 「…。」
 「ねえ。」
 肩に手をかけた時だった、
 「や、やめて、、、」
 早苗は反射的に身を翻し、一歩下がってこちらを向いた。
 その目は潤んでいて、顔は上気して、赤くなっていた。
 そして、身体を震わせたまま荒い呼吸をしていた。
 これは女性経験に乏しい自分でも分かった。
 早苗は明らかに性的に興奮していたのだ。
 「ど、どうしたの?」
 「分からない、わからないの。でも、この穴の奥を見ていたら、急に体の芯がジンジンしてきて、それで、それで、、、はあ」
 あとは喘ぎ声にしかならかった。
 なんだ、このポルノ的な展開はと、想像しなかった状況に戸惑いつつ、それならばと、自分もポルノ張りに、女を快楽に導く薄笑いの男になるべきなのだろうが、どう言う訳か、全くその気にならず、と言うか、この穴ができてからすっかり雑念が溶けてしまい、性に目覚めた中学2年から最長となる、1ヶ月間もの自慰無し生活も平気になっていたため、この状況でも、全くその気にならず、仕方なく、犬や猫を扱うように頭や背を撫でたり、お腹をさすったり、くすぐってあげるばかりだった。
 それでも、興奮しきっていた彼女にはそれで充分なようだった。

 いつの間にか、日が暮れていた。
 早苗はぐったりとしながらも、最高に甘いスイーツを食べたような表情で、穴のそばに寝そべったまま、熱っぽい目でその奥をじっと見つめていた。

 僕は、同じ部屋の食卓の椅子に腰掛け、煙草を燻らせながら、早苗が、どういう作用でこんな風になってしまったのかは分からないが、もしかすると、この穴はその人の最も望む感覚を与えてくれるのかもしれないと、とりあえずのまとめをした。
 片桐 早苗はちょっと欲求不満だったのかもしれない。
 彼氏はいないのだろうか?どうでもいいことを考えながら、なんにせよ、喜んでもらえて良かったと、心から安堵し、満足感を得ていた。
 もし、片桐早苗が穴を見ても何も感じなかったら、自分はただ、不思議ちゃんを装って、女の気を引こうとする、寒い男になるところだったと、今さらながら気付き、もしも30歳を過ぎて焦っているなんて、噂でも立てられたら、再起不能ものだったと、背筋が寒くなった。

 だが、これで自信が持てた。
 そして、人をもてなすことの嬉しさと、穴を見たときにどんな反応をするのか?という好奇心からもっと色々人を呼んで、穴を見せたくなってきていた。

 片桐 早苗が帰った後、色々思案し、次は学生時代のサークル仲間を呼ぶことに決め、今度は、最初から期待させないように、「家にでっかい穴が空いてしまったから、見においでよ。」というメールを各人に送ってみた。
 僕が所属していたのは漫画研究会。僕は読む専門だったが、中には卒業後も仕事をしながら、頑張って漫画を描いているやつもいる。
 漫画が好きなやつなら、こういう非日常には目がないはずだ。
 案の定、みな連絡を取り合って、とりあえず4人が次の週末に来ることになった。

 4人は、来るなりこの穴を見て、大騒ぎだった。
 ここまでは、期待通りの反応。
 特に1人、今も描き続けている小林という後輩は、これまでの経緯について、詳しく知りたがり、僕の行動や、感覚については、笑ったり、頷いたり、片桐 早苗の段になると、興奮し、自分がその場に居合わせたらと悔しがったりした。
 だけど、それまでだった。
 すっかり穴のことは脇に置かれ、各々買ってきた酒やつまみを広げ、いつもの飲み会の雰囲気になってしまい、僕は肩透かしを食らった気分だった。
 終いには、酔っぱらって、便所へ立つときに足をふらつかせ、穴に落ちそうになって、こんな穴、邪魔だから蓋してしまえという始末。
 どうやら、誰もかれもがこの穴から、特別な感覚を得られるわけではないことが、はっきりとした。
 そのまま、いつものようにみんなで酔っぱらって、グダグダの内にこの不毛な飲み会も終わるのかと、がっかりしたが、気がつくと、みんなの輪から一人外れ、じっと穴を見つめる男がいた。
 そいつの名前は、富田ヤギ。漫研の同期だったが、本名は忘れてしまった。
 目立つことが嫌いで、控えめな行動や発言が多く、時々大勢の中にあって、一人黙って考え込む(何についてかは決して言わないが)ことのある、男だった。
 「おいヤギ、どうした?気持ち悪いのか?」
 「…。」
 「ヤギ?吐くならトイレにしろよ。」
 「…。」
 「おいったら。?」
 「なあ、紙と鉛筆を貸してくれないか?」
 「えっ?」
 「紙と鉛筆だよ!頼む!どうしても今必要なんだ!」
 勢いに押され、僕はB4用紙の束と、めっきり使わなくなったシャープペンシルを渡した。
 すると、ヤギは床に紙を置き、黙々と、すごい勢いで何かを描き始めた。
 あっけにとられた僕らが後ろからのぞくと、なんとヤギはコマ割りから始め、漫画のネームを描いていた。
 丸の中に簡単に表情が付けられているキャラクターに、吹き出しが与えられ、熱っぽく正義と友情を語っているシーンだ。
 どうやら週刊少年漫画のようものらしく、すらすらと淀みなくネーム作業が進められていった。
 「なあ、ヤギって読み専門じゃなかった?」
 「ああ、学生の時、ヤギが描いているところなんて見たことないな。」
 「でも、これ…。」
 「ああ、手慣れている。」
 小林が唸った。
 ヤギが顔を上げた。泣いている。
 「みんな、黙っていてすまん。俺、ほんとはずっと描きたかったんだ。でも、それを言ったら、絶対見せろっていわれるだろ?それが嫌で言えなかったんだ。自分で納得できるものが描けるまでは、恥ずかしくて…。」
 なんと、ヤギは卒業後、誰にも言わずにこっそりと漫画を描き続けていたのだった。
 仕事の合間に、一人で書きため、それを週刊少年漫画誌に投稿し続けていたのだという。
 それで、ある編集者の目に止まり、完成原稿ではなく、ネームの段階で見てもらえるようになったそうだ。
 所謂、担当が付いたということだ。だがそこで、勧められたのは月間青年誌の読み切り掲載だった。
 ヤギは、週刊少年誌の掲載を夢見ていたが、年齢的な理由だけで、月間青年誌に回されることに、納得ができず、最近は何も描けずにいたという。
 だが、今日この穴の奥をじっと見つめた時に、自分の夢を諦めていいのか?と心の奥底に蟠っていた感情が、膨れ上がり、「夢を諦めるな!」と自分のではない、聞いたことのない声で、しかし親身な迫力をもった鋭い叱咤が走り、弾けたというのだ。
 後は、猛烈に描き続けた。描いては消し、描いては消し、徐々に完成されていくページを読むうちに、こちらも、引き込まれるようなシーン、台詞が飛び出してくるようになり、いつの間にか、続きを待ち焦がれるようになってしまった。
 そして、3時間。32ページのネームが完成してしまった。設定は剣と魔法の出てくるありきたりのファンタジーで、一見よくある、並みの漫画と変わらないようだが、出てくるキャラクターがどれも魅力的で、目の肥えた僕らから見ても、掲載レベルに達していた。
 この完璧主義者は、一気に描き上げて、放心したように、だが満足気に穴を見つめていた。

 ここで、僕はまた新たな発見があったことが嬉しかった。
 どうやら、この穴をのぞいた時に、特別な感覚を得ることができる人間は限られるようだ。

 そして、その人間の共通項を見つけたくなり、さらに様々なタイプの人間を呼ぶことにした。

 そのころには、穴の直径は1.5mになっていた。


 (続く)

***

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