この歴史をまなぼう☆では、魔界には欠かせないファクターである“歴史”を一緒に薊と学んでいこうではないか!!というブログです。
魔界での歴史上の武将たちのその生き様や、心意気、はたまたどうして死んだのかといういわゆる歴史を紹介し、魔界をさらに楽しんじゃおうという気持ちをもって筆をとらせていただいている次第です!
1555年9月21日
陶隆房が大軍を率いて岩国から厳島に渡り、塔の岡に本陣を置いて毛利の宮尾城(あの一気に作ったお城です)を攻撃しました。
そもそも、大内氏&尼子氏という中国地方の2大勢力に挟まれてひしめき合う小豪族の一つだった毛利氏。
・・・毛利元就(もうりもとなり)の代になって大内氏の傘下となった毛利でしたが1551年、その大内氏の重臣・陶隆が謀反を起こし、第31代の当主だった大内義隆(よしたか)を自害に追い込んで、自分の思い通りになる大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)を傀儡(かいらい・操り人形)の当主に迎えて、事実上大内氏の実権を握ったのです。
このお家騒動に対して、当初は、隆房に同調して勢力拡大を謀っていた元就でしたが、1554年に、石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)が反旗をひるがえしたのをきっかけに、元就も隆房からの離反を決意・・・またたく間に銀山(かなやま)城や草津城など、安芸南西部の諸城を落としていき、さらに、厳島(いつくしま・宮島)も制圧しました。
しかし、当然の事ながら、この離反劇を隆房が黙って見ているはずはないワケですが・・・
とは言え、相手は名門大内氏の勢力をそのまま掌握した重臣・隆房・・・今の毛利がまともに戦えば、とても勝ち目はありませんから、謀略を貼りめぐらして内部分裂を起こさせたり、厳島に囮(おとり)の城を築いたり・・・
一方、1555年9月2日に2万の軍勢を率いて拠点を発った隆房は、岩国の永興寺(えいこうじ)に諸将を集めて、今回の毛利攻めについての軍議を開きます。
その席で、勇将・弘中隆兼(ひろなかたかかね)ら何人かの武将は陸路を進言します。
「おそらく、今回の宮尾城は、陸路での野戦では勝ち目が無いと踏んだ元就の苦肉の策・・・厳島にこだわるのはやめましょう」
と・・・
おお、ちゃんと隆房側にも、元就の作戦を見抜いていた人はいたんです!!
が、しかし・・・
ヒント!最初の三文
あざみ
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