その86 築き上げるは一夜城
この歴史をまなぼう☆では、魔界には欠かせないファクターである“歴史”を一緒に薊と学んでいこうではないか!!というブログです。
魔界での歴史上の武将たちのその生き様や、心意気、はたまたどうして死んだのかといういわゆる歴史を紹介し、魔界をさらに楽しんじゃおうという気持ちをもって筆をとらせていただいている次第です!
やらいでっか!!!!
内部崩壊は作った元就。
しかしながら、陶軍との圧倒的な兵力差をどうにかしなければ勝機は見出せないでいました。
そこで元就が、隆房との戦場に選んだ島があります。
厳島(いつくしま)。
広々とした平地で、まともに戦っては勝ち目はありません、そこで選んだのは周囲わずか29km、しかも山ばっかりの厳島へとその大軍をおびき出して、思うように動けずにいる所を奇襲すれば、必ず勝機があると睨んだのです。
確かに、かの名門・大内氏は、これまでの安芸に進攻する際、この厳島を中継基地にしていましたし、もう一つの中国の雄・尼子氏が安芸を攻める時にも、ここを中継地点にして攻め込んでいました。
この厳島を制圧すれば、その周辺の制海権も握れる事になるので、安芸を攻める時の兵の輸送や兵糧の輸送が船で行え、とても便利なのです。
とは言え、あの隆房が万が一陸路で進攻して来るかもしれません。
そこで、元就・・・弘治元年(1555年)の春先から、まずは、陸の最前線となる門山(かどやま)城という城を破棄して、少し撤退してみせるとともに、その対岸の厳島に、わざとらしくミエミエの場所にて、これ見よがしに築城を開始します。
これが、宮尾城です。
この様子を見た隆房・・・早速配下の者をよこします。
かくして弘治元年(1555年)4月8日、隆房配下の神領衆が安芸小方・大竹から小船7~80艘に分乗し、厳島を攻めにやって来ました。
とは言え、わずか、これだけの軍勢・・・小競り合いを少々起こして、早々に帰っていただきました。
「んんん〜〜〜コポポポポ。まだ足りない。」
元就が、待っているのは、隆房の主力本隊の大軍なのですから・・・
やがて、その宮尾城は、無事5月に完成・・・果たして、隆房の動向は如何に。
これが、戦国三大奇襲の一つに数えられる厳島の合戦のはじまりです。
あざみ
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