A 高浜原発3、4号機(福井県高浜町、定期検査中)の再稼働をめぐり、福井地裁の樋口英明裁判長は14日、住民らの訴えを認め、運転を禁じる仮処分決定を出した。
判決事態重要であるが、原発再稼働の是非をめぐる重要な論点を示した。「基準地震動」をめぐる論議である。
参考のため、とりあえず、ウィキペヂアの説明を記載する。
「原子力発電所の耐震基準は、「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」により規定されている。これは、1981年(昭和56年)に制定され、2006年(平成18年)に改定されたものである。多くの原子力発電所は1981年に制定された指針を元に設計されている。
「この中で、発電用原子炉施設をどのような場所に設置するかを以下のように述べている。 「発電用原子炉施設は想定されるいかなる地震力に対してもこれが大きな事故の誘因とならないよう十分な耐震性を有していなければならない。また、建
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コメント
「問う――恥じなき国の恥なき時代に、『人間』でありつづけることは可能か?」(辺見庸『今ここに在ることの恥』)
辺見庸。このところ忘れていた名前ですが、現代を深く洞察しておられるかたの一人ではないでしょうか。
記憶では、哲学者アガンベンの「ホモ。サケル」(人間以下として放置されたもの)を引用されていたことを思い出します。
社会の不合理に対して、階級闘争に立ち向かうことなく、近隣諸国との軍拡競争を支持する非受益者、貧困者の群れを指している。個人の直観力、洞察力が鍛えられず、現実的即物思考に走る大阪の橋本などが典型的な例ではないか。集団以前の問題として捉えておられたのではないでしょうか。
翁長を褒めているのかけなしたいのかよくわからないが、もともと自民党だし過去の問題をかかえているのは間違いないだろう。だから仲井眞と同じ道をたどるかどうかはわからない。ただ指摘の通りそうなる可能性をいつも意識して、沖縄県民は冷静に知事の人格を見極めなければいけない。恥とは何もかもをオープンにされることではない。人間らしさをかなぐり捨てることこそ辺見庸がいう「恥」だ。一度捨ててしまった人間は同じことをしてしまう。そういう意味では指摘は正しかったのかもしれない。
(ID:18367902)
沖縄の翁長知事同様に福井地裁樋口裁判長も、己の信念が、地位、名誉、金などによって心を奪われることのない確固としたものなのでしょう。こういう方が続いて出てきているのは、うれしいことです。
どのように理解しようとしても、人間だけでなくあらゆる生物を創造する、あらゆる出来事を創造する(たとえば地震、津波、竜巻、ハリケーンなど)地球上を支配する創造者(力、エネルギー)の意に反して、命よりも、一時的利己的な生活の豊かさを追求することが優先することなどありえない。優先するとすれば、傲慢な人間というより、欲望に侵され人間の心を失った異生物と言えるのでしょう。
翁長知事も素晴らしい。沖縄県民の意思を意志として信念で向き合ってこられると、仲井間知事知事のようにちょろまかすことができない。安倍、菅など口先政治家では解決できず、米国が地位協定で譲歩するとか、沖縄から撤退するとかの選択を迫られるのではないか。観光誘致の目的であっても、河野氏と中国に出かけた戦略的意義は大きい。民主主義を標榜する米国も苦渋の選択を迫られることになる。
国民を動かす力の源泉は確固たる信念であることを教えてくれる二人の方に拍手したい。己を捨てることのない人は人を動かすことができないということも教えている。