外国人観光客の課題というより、少し巨視的に捉えて、移民政策等という観点からも考えてみたい。 私自身はおそらく国外に出ることはないと思うから、かなり閉鎖的な立ち位置からの考えであることは、あらかじめお断りしておきたい。 入国時等での観光客への料金設定の是非については、わたしは肯定的である。観光地の維持管理のための必要経費を、旅行者に求めるのは応分負担の観点から合理的だろう。それに、日本に来る観光客について言うなら、円安メリットを享受しているだろうし、日本が安く買い叩けることが観光の魅力になっていることも否めないのではないか?とするなら、せめて、観光地の維持管理費用を別途負担いただきたい、というのは人情ではなかろうか?もっとも、となれば、逆に日本から外国に行く際には、負担を甘受してもらうしかないだろう。 さて、その上で更に巨視的にかつ抽象的に考えるなら、そもそも外国或いは外国人との距離が“必要以上“に近くなりすぎることが軋轢を産んでいるということではなかろうか? その背景には、交通手段とSNS等情報取得手段の向上があることは論をまたないだろう。その意味では、どこまで受忍するのか、社会的な議論が必要になっているのではないか? ここで“必要以上“に、というのは、例えば、日本人が見向きもしないようなマイナーな場所に何故か、外国人が多数やってくるみたいな、そんなカンジを指している。観光地に大挙して押し寄せる外国人と、マイナーという意味で、むしろ“生活“の中に、外国人が土足で踏み込んでくる違和感と言ったら良いのだろうか? 勿論、短絡的外国人排斥を言うつもりは毛頭ない。 ただ、観光ならOK、移民はNOみたいなことだけでなく、改めて日本社会としての外国人との向き合い方を議論する必要性に迫られている印象である。それは、交通手段や情報手段の向上がなし崩し的に外国人の「氾濫」を可能にしたことに、国民の意識や生活が追い付いていないことを意味しているように思える。そして、当然これは日本だけの課題でもないのだろう。 グローバリズムとか、グローバル資本主義はどちらかというと、移民に寛容だろうし、移民受容に親和的だろう。なぜなら、移民は労働力だから。しかし、昔からそのような低賃金労働力が差別や貧困の問題に発展したり、対立や暴動のタネになってきたのは歴史的事実だろう。 歴史的には日本帝国主義による植民地支配と差別貧困もそのような文脈だろうし、最近特に世界的に耳目を集めているのは、アメリカ帝国ら西欧の抱える移民問題は「外国人」との向き合い方を突き付けていると考えている。 最近、フランスとドイツで反移民を掲げた政党が多数の議席を獲得し、国民からの支持を集めている。私はこのような傾向を極右傾向と決めつけるのではく、社会的安定を求める国民からの素朴な要求の現れと見ている。 アメリカ帝国を含む西欧が移民政策で揺れているのは事実だ。単なる労働力補充手段とか人道上の見地のみでは片付けられない問題が、そこに横たわっていると考えるべきだろう。 言って見れば、グローバリズムとか、グローバル資本主義、グローバルスタンダードといった西欧エリートが掲げた価値の歪みだ。 今、国民国家の意義が再評価される時代に変わってきたのではないか?改めて、文化的同質性と、そのことによる社会的安定の意義に人々が気づかされてきた。国民国家への回帰と揺り戻しが起こっている。 トランプの言うMAGAも、そのような文脈ではなかろうか? 大事なことは、「今だけ、カネだけ、ジブンだけ」みたいな、経済合理性のみから外国人の利用価値を考えるのではなく、国民国家の枠組みと社会的安定の観点から、外国人とどう向き合うか、慎重かつ丁寧に答えを出していくことだと考えている。
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孫崎享チャンネル
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外国人観光客の課題というより、少し巨視的に捉えて、移民政策等という観点からも考えてみたい。
私自身はおそらく国外に出ることはないと思うから、かなり閉鎖的な立ち位置からの考えであることは、あらかじめお断りしておきたい。
入国時等での観光客への料金設定の是非については、わたしは肯定的である。観光地の維持管理のための必要経費を、旅行者に求めるのは応分負担の観点から合理的だろう。それに、日本に来る観光客について言うなら、円安メリットを享受しているだろうし、日本が安く買い叩けることが観光の魅力になっていることも否めないのではないか?とするなら、せめて、観光地の維持管理費用を別途負担いただきたい、というのは人情ではなかろうか?もっとも、となれば、逆に日本から外国に行く際には、負担を甘受してもらうしかないだろう。
さて、その上で更に巨視的にかつ抽象的に考えるなら、そもそも外国或いは外国人との距離が“必要以上“に近くなりすぎることが軋轢を産んでいるということではなかろうか?
その背景には、交通手段とSNS等情報取得手段の向上があることは論をまたないだろう。その意味では、どこまで受忍するのか、社会的な議論が必要になっているのではないか?
ここで“必要以上“に、というのは、例えば、日本人が見向きもしないようなマイナーな場所に何故か、外国人が多数やってくるみたいな、そんなカンジを指している。観光地に大挙して押し寄せる外国人と、マイナーという意味で、むしろ“生活“の中に、外国人が土足で踏み込んでくる違和感と言ったら良いのだろうか?
勿論、短絡的外国人排斥を言うつもりは毛頭ない。
ただ、観光ならOK、移民はNOみたいなことだけでなく、改めて日本社会としての外国人との向き合い方を議論する必要性に迫られている印象である。それは、交通手段や情報手段の向上がなし崩し的に外国人の「氾濫」を可能にしたことに、国民の意識や生活が追い付いていないことを意味しているように思える。そして、当然これは日本だけの課題でもないのだろう。
グローバリズムとか、グローバル資本主義はどちらかというと、移民に寛容だろうし、移民受容に親和的だろう。なぜなら、移民は労働力だから。しかし、昔からそのような低賃金労働力が差別や貧困の問題に発展したり、対立や暴動のタネになってきたのは歴史的事実だろう。
歴史的には日本帝国主義による植民地支配と差別貧困もそのような文脈だろうし、最近特に世界的に耳目を集めているのは、アメリカ帝国ら西欧の抱える移民問題は「外国人」との向き合い方を突き付けていると考えている。
最近、フランスとドイツで反移民を掲げた政党が多数の議席を獲得し、国民からの支持を集めている。私はこのような傾向を極右傾向と決めつけるのではく、社会的安定を求める国民からの素朴な要求の現れと見ている。
アメリカ帝国を含む西欧が移民政策で揺れているのは事実だ。単なる労働力補充手段とか人道上の見地のみでは片付けられない問題が、そこに横たわっていると考えるべきだろう。
言って見れば、グローバリズムとか、グローバル資本主義、グローバルスタンダードといった西欧エリートが掲げた価値の歪みだ。
今、国民国家の意義が再評価される時代に変わってきたのではないか?改めて、文化的同質性と、そのことによる社会的安定の意義に人々が気づかされてきた。国民国家への回帰と揺り戻しが起こっている。
トランプの言うMAGAも、そのような文脈ではなかろうか?
大事なことは、「今だけ、カネだけ、ジブンだけ」みたいな、経済合理性のみから外国人の利用価値を考えるのではなく、国民国家の枠組みと社会的安定の観点から、外国人とどう向き合うか、慎重かつ丁寧に答えを出していくことだと考えている。