思い返してみると、私は春先に、かつての先輩とウクライナ問題を巡り、意見が対立し、「このバカモノ!」と面罵までされたのであった。 ま、お互い、酒の席での言い争い。 私も「バカはどっちですか?!」みたいな、小学生みたいなやりとりを記憶しているので、ヒトのことは言えない。 その時、印象に残った先輩の言説。 「オマエ、ホロドモールで何人ウクライナ人が死んだか、答えてみろ!」 私が答えに窮していると、畳み掛けるように、「オマエは勉強が足りん!」と、やられた。 しかし、このような先輩の論理構成は停戦和平論となんの関係もない。無意味な空論である。ホロドモールがあったから、内戦下ウクライナにおいて露系ウクライナ人は殺されて当然だ、という論理にはならない。これは、常識的に当然である。 ウクライナ人を「弱者」にしたて、ロシアを悪魔化する判官贔屓論法は、停戦和平の妨げになる罪深い空論だ。 判官贔屓論法の延長には、ウクライナ人が勝つまで、皆で応援しよう!みたいな、スポーツ観戦みたいな無責任、非現実に堕するのである。最早、ウクライナは勝てないから、結果的にウクライナ応援はウクライナ人をひたすら死に追いやる死の呪文と化している。 これが、唾棄すべきウクライナ応援団サヨクの姿の素描だ。 ところで、自分のハナシで恐縮だが、私は組合活動家の現役時代、現実主義者を心密かに自認していた。即ち、組合交渉においては、まず現実的オトシドコロを考える。これは単に私の経験則、主観である。そして、それを考えて結論を出したら、ブレずに貫くだけだった。逆に言うなら、自分で「答え」を出して、その「答え」に向けて交渉を組み立てるのみ。 交渉で得られる結論は最大公約数ではない。時々の、力関係や社会状況にも影響されるからだ。「最低限」の現実的結論に達するなら、自分として合格だ。割り切りである。 何が言いたいかというなら、私の主観で言うと、私はロシアの特別軍事作戦が開始された時から、ウクライナ敗北を確信していた。露宇の国力、経済力、軍事力を考えるなら、ごく当然の直感であった。つまり、現実的にウクライナに勝ち目はない、と。 従って、ウクライナの現実的選択肢は、国民の死者を如何に減らすか、ということだけだろうと、考えていた。要は、ロシアが勝っても良いから、ウクライナの取るべき道は停戦和平だ、と。 だから、判官贔屓的ウクライナ可哀想理論には、当初から全く私の思考の埒外であった。その後、ほどなく自分で勉強して、ウクライナには全く大義がないことを学んだ。 だから、私は自らの現実主義的信念からしても、ウクライナ応援団を呆れ果てて眺めている。その中に、サヨクリベラルがいることが残念である。 可哀想なウクライナ人を応援することより、現実的にウクライナ人のイノチを救う理論を語るのがサヨクだろ!と言いたい。 非現実的な聖なるレジスタンスみたいなカンジでウクライナを応援する判官贔屓サヨクが一番始末が悪いかもしれない。
チャンネルに入会
フォロー
孫崎享チャンネル
(ID:119568177)
思い返してみると、私は春先に、かつての先輩とウクライナ問題を巡り、意見が対立し、「このバカモノ!」と面罵までされたのであった。
ま、お互い、酒の席での言い争い。
私も「バカはどっちですか?!」みたいな、小学生みたいなやりとりを記憶しているので、ヒトのことは言えない。
その時、印象に残った先輩の言説。
「オマエ、ホロドモールで何人ウクライナ人が死んだか、答えてみろ!」
私が答えに窮していると、畳み掛けるように、「オマエは勉強が足りん!」と、やられた。
しかし、このような先輩の論理構成は停戦和平論となんの関係もない。無意味な空論である。ホロドモールがあったから、内戦下ウクライナにおいて露系ウクライナ人は殺されて当然だ、という論理にはならない。これは、常識的に当然である。
ウクライナ人を「弱者」にしたて、ロシアを悪魔化する判官贔屓論法は、停戦和平の妨げになる罪深い空論だ。
判官贔屓論法の延長には、ウクライナ人が勝つまで、皆で応援しよう!みたいな、スポーツ観戦みたいな無責任、非現実に堕するのである。最早、ウクライナは勝てないから、結果的にウクライナ応援はウクライナ人をひたすら死に追いやる死の呪文と化している。
これが、唾棄すべきウクライナ応援団サヨクの姿の素描だ。
ところで、自分のハナシで恐縮だが、私は組合活動家の現役時代、現実主義者を心密かに自認していた。即ち、組合交渉においては、まず現実的オトシドコロを考える。これは単に私の経験則、主観である。そして、それを考えて結論を出したら、ブレずに貫くだけだった。逆に言うなら、自分で「答え」を出して、その「答え」に向けて交渉を組み立てるのみ。
交渉で得られる結論は最大公約数ではない。時々の、力関係や社会状況にも影響されるからだ。「最低限」の現実的結論に達するなら、自分として合格だ。割り切りである。
何が言いたいかというなら、私の主観で言うと、私はロシアの特別軍事作戦が開始された時から、ウクライナ敗北を確信していた。露宇の国力、経済力、軍事力を考えるなら、ごく当然の直感であった。つまり、現実的にウクライナに勝ち目はない、と。
従って、ウクライナの現実的選択肢は、国民の死者を如何に減らすか、ということだけだろうと、考えていた。要は、ロシアが勝っても良いから、ウクライナの取るべき道は停戦和平だ、と。
だから、判官贔屓的ウクライナ可哀想理論には、当初から全く私の思考の埒外であった。その後、ほどなく自分で勉強して、ウクライナには全く大義がないことを学んだ。
だから、私は自らの現実主義的信念からしても、ウクライナ応援団を呆れ果てて眺めている。その中に、サヨクリベラルがいることが残念である。
可哀想なウクライナ人を応援することより、現実的にウクライナ人のイノチを救う理論を語るのがサヨクだろ!と言いたい。
非現実的な聖なるレジスタンスみたいなカンジでウクライナを応援する判官贔屓サヨクが一番始末が悪いかもしれない。