>ナノボットが私たちの血流を流れ、修復を行い、私たちの脳をクラウドにつなぐことを予測。 こうした話題から、個人的に連想してしまうのは、「ワクチンにはマイクロチップが仕込まれ、5G通信で操作される」(毎日)というネタ。 https://mainichi.jp/articles/20210831/ddm/001/070/142000c 私は反mRNAワクチンだが、上記を信じていたわけではない。 ただ、体内にナノチップという話は、ネット上いくらでも検索できるので、少なくとも技術的にはあり得る話だろう。 >未来学者は、人間が2030年までに不死を達成すると予測 それで、「不死」はどうだろうか? 健康寿命が延長することは、良いこととは思う。 しかし、技術的な問題というより、人生観とか哲学的に考えると、不死そのものに、私自身は特別な価値は見いだせない。 単に「呼吸している」だけで良いのかどうか?所謂、QOLの課題は大きいと考えている。それは、高齢の母を特養ホームにてお世話していただいている状況も含めて、そのように考えている。 このような思考様式に入り込む危険な思潮も理解している。即ち、優生思想である。 生きるに値する命と、そうでない命。それを国家が決める思想を優生思想だと理解している。 私は優生思想には反対である。 しかし、個人の人生観として言うなら、こういう死に方が理想だ、ということも実はある。そうすると、人それぞれの死を私の価値観で測ってしまう、という思考回路に陥っていることもある。 私の死生観としては、漠然とだが、出来るだけ「自然な形」で死を迎える方が良いよいのではないか、と考えている。つまり、技術的或いは過剰な医療介入による「不死」とか延命には疑問がある。 私にとって、戦場での死は不自然の極みだと考えている。また、コロナ禍の老人ホームに見られた「死なないための隔離」も違和感を禁じえない。 私は常々、イノチとクラシが大事と訴えてはいるが、イノチを考える際にどう生きるか、ということも疎かには出来ないと考えている。 兼好法師は「生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。(生きている時に、生きる喜びを楽しまないで、いざ死ぬ時になって死を恐れるならば、私の言う理屈とは合わない生き方をしていることになる) 」と言ったそうだが、人間はいずれ死ぬもの、そして、ただ息だけしていれば良い、とはならないのではないか? 日本人はコロナ禍では、上っ面の弥縫策に終始し、結果的には老人のイノチは「重視」して、若者たちのイノチは軽視する、という態度だったと私は総括している。 一定の年齢を越えたら、死生観は大事だな、と考えている。
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>ナノボットが私たちの血流を流れ、修復を行い、私たちの脳をクラウドにつなぐことを予測。
こうした話題から、個人的に連想してしまうのは、「ワクチンにはマイクロチップが仕込まれ、5G通信で操作される」(毎日)というネタ。
https://mainichi.jp/articles/20210831/ddm/001/070/142000c
私は反mRNAワクチンだが、上記を信じていたわけではない。
ただ、体内にナノチップという話は、ネット上いくらでも検索できるので、少なくとも技術的にはあり得る話だろう。
>未来学者は、人間が2030年までに不死を達成すると予測
それで、「不死」はどうだろうか?
健康寿命が延長することは、良いこととは思う。
しかし、技術的な問題というより、人生観とか哲学的に考えると、不死そのものに、私自身は特別な価値は見いだせない。
単に「呼吸している」だけで良いのかどうか?所謂、QOLの課題は大きいと考えている。それは、高齢の母を特養ホームにてお世話していただいている状況も含めて、そのように考えている。
このような思考様式に入り込む危険な思潮も理解している。即ち、優生思想である。
生きるに値する命と、そうでない命。それを国家が決める思想を優生思想だと理解している。
私は優生思想には反対である。
しかし、個人の人生観として言うなら、こういう死に方が理想だ、ということも実はある。そうすると、人それぞれの死を私の価値観で測ってしまう、という思考回路に陥っていることもある。
私の死生観としては、漠然とだが、出来るだけ「自然な形」で死を迎える方が良いよいのではないか、と考えている。つまり、技術的或いは過剰な医療介入による「不死」とか延命には疑問がある。
私にとって、戦場での死は不自然の極みだと考えている。また、コロナ禍の老人ホームに見られた「死なないための隔離」も違和感を禁じえない。
私は常々、イノチとクラシが大事と訴えてはいるが、イノチを考える際にどう生きるか、ということも疎かには出来ないと考えている。
兼好法師は「生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。(生きている時に、生きる喜びを楽しまないで、いざ死ぬ時になって死を恐れるならば、私の言う理屈とは合わない生き方をしていることになる) 」と言ったそうだが、人間はいずれ死ぬもの、そして、ただ息だけしていれば良い、とはならないのではないか?
日本人はコロナ禍では、上っ面の弥縫策に終始し、結果的には老人のイノチは「重視」して、若者たちのイノチは軽視する、という態度だったと私は総括している。
一定の年齢を越えたら、死生観は大事だな、と考えている。