ウクライナの隣国、ポーランドの「ロシア人嫌い」に相応の理由があるのは確かだろう。そこへ今や「アベ政治」の如き状況も加わっている。彼の地の人には「ロシア糾弾/制裁、ウクライナ武器支援などバカげている!」と単純に伝えるわけにはいかない。以下、昨年末にポーランド人から届いたメールー 「日本には日本の、ポーランドにはポーランドの、過去の悪魔がある。残虐行為については謝罪した方がいい。謝罪がなければ、常に復讐のための肥沃な土壌がある。より大きな外的脅威だけが、過去に大虐殺のあった2つの国を結び付けることができる。ロシアのウクライナ侵攻で唯一良かったことは、ポーランドとウクライナの関係が大きく改善されたことだ。私のポーランド人家族は、1943年のウクライナ反乱軍によるヴォルヒィニアの大虐殺で、小さな子供も含めて30人ほど殺された(ウクライナ人は決して謝罪せず、それについて教えることもしない)。それでも私の家族全員が、2月以来ウクライナ人を支持し、いくつかの方法で彼らを助けている。大多数のポーランド人と同じように。800万人のウクライナ人が戦争勃発後にポーランドにやって来て、200万人が留まっている。 今日、私たちの運命は絡み合っている。私の兄のウクライナ人のガールフレンドはキエフ出身だ。彼女の母親はキエフの北西郊外にある彼女の家に滞在し、ロシアの占領を生き延びた(どうにか死は免れた)。彼女の兄はキエフを守る準軍事部隊の司令官だった(彼らは赤外線カメラとドローンを使ってロシアの戦車を発見していた)。私たちは前線からのメッセージを受け取り、彼女の親族の安否を心配していた。兄と彼女は仕事を辞め、この特定の部隊への援助の調整に全力を注ぎ、ドイツ人スポンサー、チェコ人、リトアニア人、ポーランド人の配達員のネットワークを構築した。私もボディーアーマーを検証できる物流専門家を探すなどサポートした。 ポーランド人は、数ヶ月前にベラルーシとの国境で中東からの難民を助けることには概して無関心だったが(これには腹が立った。私は余った服を彼等に渡したりした)、ウクライナ人を狂ったように助けていたのである。ある人はウクライナ人を自宅に招き、ある人はウクライナ人家族のスポンサーとなり、私たち数名はウクライナ人家族のためにアパートを用意した。私は予備のシーツ、ベッドカバー、タオル、衣類をすべて提供し、ある者は予備のスマートフォンを提供した。私は自分の給料の3分の1をウクライナの様々な活動に寄付した。私の親族は4人家族(祖母、母、男子2人)を自分のアパートで受け入れ、また別の親族は、ウクライナ人の障害児の母親を自分のアパートに数ヶ月間招待した。私たちは、この2つの家族に物を買い与え、必要な通訳、書類入手を行い、医者を探すなどのサポートをした。数ヶ月の間、私たちは自分たちの生活とウクライナ人を助けるボランティアという二重生活を送った。援助は自発的なもので、国家レベルで組織化されたものではなかったが、概して効率的だった。ウクライナの兵士たちは、誰もが思っている以上に強く、断固としていることが分かった。ウクライナ人のゲストは、ロシアの撤退後すぐに、十分に安全なキエフに帰国された。一筋の希望が見えてきた。ポーランドから戦線が遠のいたのだ。だが、(上記)彼女の弟が戦っているので、彼女は買える限りの防寒着を送ったところだ。クリスマスイブの間、私たちは暗闇と寒さの中で、国を解放するためにロシアと戦い、地域の平和を願っている人たちに思いを馳せることになるだろう。」
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孫崎享チャンネル
(ID:18471112)
ウクライナの隣国、ポーランドの「ロシア人嫌い」に相応の理由があるのは確かだろう。そこへ今や「アベ政治」の如き状況も加わっている。彼の地の人には「ロシア糾弾/制裁、ウクライナ武器支援などバカげている!」と単純に伝えるわけにはいかない。以下、昨年末にポーランド人から届いたメールー
「日本には日本の、ポーランドにはポーランドの、過去の悪魔がある。残虐行為については謝罪した方がいい。謝罪がなければ、常に復讐のための肥沃な土壌がある。より大きな外的脅威だけが、過去に大虐殺のあった2つの国を結び付けることができる。ロシアのウクライナ侵攻で唯一良かったことは、ポーランドとウクライナの関係が大きく改善されたことだ。私のポーランド人家族は、1943年のウクライナ反乱軍によるヴォルヒィニアの大虐殺で、小さな子供も含めて30人ほど殺された(ウクライナ人は決して謝罪せず、それについて教えることもしない)。それでも私の家族全員が、2月以来ウクライナ人を支持し、いくつかの方法で彼らを助けている。大多数のポーランド人と同じように。800万人のウクライナ人が戦争勃発後にポーランドにやって来て、200万人が留まっている。
今日、私たちの運命は絡み合っている。私の兄のウクライナ人のガールフレンドはキエフ出身だ。彼女の母親はキエフの北西郊外にある彼女の家に滞在し、ロシアの占領を生き延びた(どうにか死は免れた)。彼女の兄はキエフを守る準軍事部隊の司令官だった(彼らは赤外線カメラとドローンを使ってロシアの戦車を発見していた)。私たちは前線からのメッセージを受け取り、彼女の親族の安否を心配していた。兄と彼女は仕事を辞め、この特定の部隊への援助の調整に全力を注ぎ、ドイツ人スポンサー、チェコ人、リトアニア人、ポーランド人の配達員のネットワークを構築した。私もボディーアーマーを検証できる物流専門家を探すなどサポートした。
ポーランド人は、数ヶ月前にベラルーシとの国境で中東からの難民を助けることには概して無関心だったが(これには腹が立った。私は余った服を彼等に渡したりした)、ウクライナ人を狂ったように助けていたのである。ある人はウクライナ人を自宅に招き、ある人はウクライナ人家族のスポンサーとなり、私たち数名はウクライナ人家族のためにアパートを用意した。私は予備のシーツ、ベッドカバー、タオル、衣類をすべて提供し、ある者は予備のスマートフォンを提供した。私は自分の給料の3分の1をウクライナの様々な活動に寄付した。私の親族は4人家族(祖母、母、男子2人)を自分のアパートで受け入れ、また別の親族は、ウクライナ人の障害児の母親を自分のアパートに数ヶ月間招待した。私たちは、この2つの家族に物を買い与え、必要な通訳、書類入手を行い、医者を探すなどのサポートをした。数ヶ月の間、私たちは自分たちの生活とウクライナ人を助けるボランティアという二重生活を送った。援助は自発的なもので、国家レベルで組織化されたものではなかったが、概して効率的だった。ウクライナの兵士たちは、誰もが思っている以上に強く、断固としていることが分かった。ウクライナ人のゲストは、ロシアの撤退後すぐに、十分に安全なキエフに帰国された。一筋の希望が見えてきた。ポーランドから戦線が遠のいたのだ。だが、(上記)彼女の弟が戦っているので、彼女は買える限りの防寒着を送ったところだ。クリスマスイブの間、私たちは暗闇と寒さの中で、国を解放するためにロシアと戦い、地域の平和を願っている人たちに思いを馳せることになるだろう。」