俳句の世界は、芭蕉にあっては、禅の思想であって、私たちが、どのように日常の言動に生かしていけるかが、重要なのでしょう。 私たちの心には、過去の現象、未来の可能性が一杯蔵されており、外部を見聞覚知する中で、様々な言動が、現出してくる。誰でも、行動するとき、自分の心と向き合い、言動を現出するわけであるが、様々な知識が災いして、簡単に言動として出ない場合は沈黙している以外ない。簡単に言動が出る場合は、例えば思想的に、体制派とか反体制派というように、偏る、捉われる、執着している場合である。心に、体制派の考えを肯定し否定し、反体制派の考えを肯定し否定している場合は,体制派反対派に組することなく自分の言葉を自分が発するということであり、自分の存在が、自分の言動によって確認することができる。孫崎さんの趣旨を慮ってみたとき、そのような考えが浮かんだ。 周りを見ても、自分の言葉で自信をもって話をする人が少なくなっている。体制に組み込まれた教育、有名人の学説などを覚えて、自身で考えることなく、あたかも自分の考えであるがごとくふるまう人が多くなっている。ほとんどの人は、学校の教育、他人の真似、模倣である。独自の世界観の中で、ただ、心に浮かんだ句が、ただそのまま発せられた芭蕉の俳句と距離感が出てしまう。
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孫崎享チャンネル
(ID:18367902)
俳句の世界は、芭蕉にあっては、禅の思想であって、私たちが、どのように日常の言動に生かしていけるかが、重要なのでしょう。
私たちの心には、過去の現象、未来の可能性が一杯蔵されており、外部を見聞覚知する中で、様々な言動が、現出してくる。誰でも、行動するとき、自分の心と向き合い、言動を現出するわけであるが、様々な知識が災いして、簡単に言動として出ない場合は沈黙している以外ない。簡単に言動が出る場合は、例えば思想的に、体制派とか反体制派というように、偏る、捉われる、執着している場合である。心に、体制派の考えを肯定し否定し、反体制派の考えを肯定し否定している場合は,体制派反対派に組することなく自分の言葉を自分が発するということであり、自分の存在が、自分の言動によって確認することができる。孫崎さんの趣旨を慮ってみたとき、そのような考えが浮かんだ。
周りを見ても、自分の言葉で自信をもって話をする人が少なくなっている。体制に組み込まれた教育、有名人の学説などを覚えて、自身で考えることなく、あたかも自分の考えであるがごとくふるまう人が多くなっている。ほとんどの人は、学校の教育、他人の真似、模倣である。独自の世界観の中で、ただ、心に浮かんだ句が、ただそのまま発せられた芭蕉の俳句と距離感が出てしまう。