日本とイランの経済は、シャー王朝の時、石油、石油製品を求める日本と、日本製品を求めるイランで互恵関係が極めて良好に推移していった。私も二度ほどイランに出かけたが、商売は厳しくとも、心の優しさが伝わってくる国民性をよく覚えている。当時は、中近東では、大変近代化が進んでいることを強く実感した。 1953年、シャー王朝はアメリカの援助を受けるようになり、脱イスラム化と近代化政策をとり、シャーは、農地改革、国営企業の近代化、婦人参政権、識字率の向上を目指した。脱イスラムと近代化が宗教勢力や保守勢力の反発を招き、25年後大きな革命に見舞われた。 1978年1月海外亡命中のホメイニ氏を中傷した記事をめぐり、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。 1978年4月国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニ氏が提唱した「法学者の統治」が国家体制の基本となった。 1953年から1978年まで、日本とイランの貿易は、堅調に進んでおり、石油、石油製品の輸入に対し、自動車を中心とする工業製品が輸出され、日本の中近東に対する一番大きな貿易国となり、日本、イランの国民感情が極めて良好であった。その友好関係が持続されているのであって、ホメイニ体制になって、特に、友好関係が進んでいるわけではないということに注目する必要性がある。
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孫崎享チャンネル
(ID:18367902)
日本とイランの経済は、シャー王朝の時、石油、石油製品を求める日本と、日本製品を求めるイランで互恵関係が極めて良好に推移していった。私も二度ほどイランに出かけたが、商売は厳しくとも、心の優しさが伝わってくる国民性をよく覚えている。当時は、中近東では、大変近代化が進んでいることを強く実感した。
1953年、シャー王朝はアメリカの援助を受けるようになり、脱イスラム化と近代化政策をとり、シャーは、農地改革、国営企業の近代化、婦人参政権、識字率の向上を目指した。脱イスラムと近代化が宗教勢力や保守勢力の反発を招き、25年後大きな革命に見舞われた。
1978年1月海外亡命中のホメイニ氏を中傷した記事をめぐり、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
1978年4月国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニ氏が提唱した「法学者の統治」が国家体制の基本となった。
1953年から1978年まで、日本とイランの貿易は、堅調に進んでおり、石油、石油製品の輸入に対し、自動車を中心とする工業製品が輸出され、日本の中近東に対する一番大きな貿易国となり、日本、イランの国民感情が極めて良好であった。その友好関係が持続されているのであって、ホメイニ体制になって、特に、友好関係が進んでいるわけではないということに注目する必要性がある。