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遺言 その9 2016/1/4
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男が自らのコピーを残そうという本能に従い、セックスをし、射精するとします。
しかし、射精された精子は、すぐに卵子と出会えるわけではありません。卵子は卵管の奥、卵管膨大部と呼ばれる場所にいます。膣の奥にある子宮内腔から卵管膨大部までの距離は約17センチメートルあるのです。精子の全長はおよそ50マイクロメートル、これはセンチメートルに直すと0.005になります。つまり、自分の身体の長さの約3400倍の距離を泳いでいく必要があるのです。仮に貴方の身長が1.7メートルだとしたら、約5.8キロの距離になります。
タイミングも重要です。精子の寿命は3~4日ありますが、卵子は1日で受精能が無くなる――死んでしまいます。
上手く精子と卵子が出会い、二つの細胞が融合して受精卵となったとしても、まだまだ安心できません。細胞分裂を繰り返しながら子宮に移動して、無事に着床する必要があります。
細胞分裂――卵割が正常に進むことも重要です。一つの細胞だった受精卵にくびれが生じ、二つに分割されます、更に、それぞれの細胞にくびれが生じ、計四つに分割されます……これを繰り返していくことで分化が進み、桑実胚から胞胚となり、やがては胎児になり、出産され新生児になり、成長しておっさんになるわけです。
受精卵は透明帯と呼ばれる卵子由来の糖蛋白質に覆われ、保護されていますが、物理的な刺激により破れる時があります。受精卵が二つに分割された時――二卵期の受精卵は細胞間の接着が弱いため、透明帯が破れ、無くなると、一個ずつの細胞に分かれてしまいます。
この二つの細胞は、それぞれが完全な胎児、完全な新生児、完全なおっさんになる能力を持っています。それぞれが無事に着床し、無事に出産されれば、同じ遺伝子、ほとんど同じ外見を持つ一卵性双生児として誕生することになるわけです。
しかし、だからといって二人が同じおっさんに成長するとは限りません。同じ遺伝子一そろい――同じゲノムを持っていても、どの遺伝子がどのように発現されるかは環境で決まります。生まれたばかりの一卵性双生児に違いはほとんどありませんが、加齢と共に環境要因由来の差異、後天的差異は増え続けます。おっさんになるまでどう生きてきたかによって、指紋も虹彩もほくろの位置も違えば、体型も知識も知能も違います。人生が違えば、人生観が違うのです。どのようなおっさんになるかは、後天的な要因が大きいといっていいでしょう。
だから、私と目の前にいる兄――兄貴は、全く違うおっさんであると言い切ってまず間違いないのです。
「それで、警察の取り調べってどんな感じだったんだよ?」
通夜も葬式も無事済んだし、相続やらなんやらについてメシでも食いつつ軽く打ち合わせしないか――そんな誘いを兄貴から受けたのは、警察の事情聴取が終わって十数日ほど経った頃でした。
面白かったのは、取り調べが終わって数日後、取調室でとった食事の請求書がきっちりと送られてきたことでした。
事情聴取を担当した刑事は複数人いて、違う人に同じ話をするのは骨が折れたのですが、どの刑事も正午や夕方といった食事時になると、まるで刑事ドラマのように「ちょっと一休みしてカツ丼でも食わないか」と持ち掛けてくるのです。てっきり刑事さんのオゴリだと思っていたのですが……血税をこんなところに使っていては予算がいくらあっても足りないということなのかもしれません。
そのことを話すと、兄貴は爆笑して、「領収書をもらっておけば、年末調整の時に経費で落とせるんじゃないか」と冗談っぽく言いました。私には、無理して捻り出した冗談のように聞こえました。
A子さんの発着信履歴に私のスマホの番号が残っていた、だから事情を聞きたい――これはあくまでも建前であり、警察は最初から私を第一容疑者として疑っていることが、取り調べにあたった刑事の態度から丸わかりでした。
それも仕方ないことでしょう。なにしろ死因が死因です。A子さんは深夜、人気の少ない駅のホームにて、何者かが背中を押したことにより線路に突き落とされました。ちょうど、通過しようとしていた急行が駅に入ってくる直前でした。A子さんは轢死したのです。その日のニュースでは、人身事故で電車の運行に数時間の遅延が発生したことが報道されていました。
ですが、当然私には身に覚えがありません。何度もそう繰り返していると、駅の防犯カメラで撮影された映像をみせられました。そこには、私のような背丈で、私のような顔をしたおっさんが、A子さんを絶妙のタイミングで線路に突き落とす姿が映っていました。明らかに故意です。
幸運にも、現在は様々なところに個人情報を残せてしまう、残してしまう社会です。スイカやTカードやクレジットカードの使用記録、地下鉄やコンビニの防犯カメラ、スマホの位置情報、そしてNシステム……なによりも、私にはその時間に祖父の「愛人」の一人と面会し、話を聞いていたというアリバイがありました。彼女は証人としてきちんと警察に私のアリバイを証言してくれましたし、会食に使った居酒屋の支払いをクレジットカードで支払ったのも正解でした。もう自宅の前に不審な車が長時間停車することもありませんし、夜中に出歩いても尾行がつくこともありません。それなりに時間はかかりましたが、私への嫌疑は晴れたようです。
警察は、現時点で被疑者を見失っているのかもしれません。
ですが、私はこの世の中にもう一人、私と同じ背格好で、私と同じ顔をして、私と同じように行動するおっさんがもう一人いることを知っています。
A子さんを殺したのは兄貴なのではないでしょうか?
「何故、そう思うんだよ?」
そう伝えても、兄貴はニヤニヤ笑いの表情を全く変えずに受け答えするのでした。
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