おはようございます、マクガイヤーです。
前回の放送「『レディ・プレイヤー1』と『ゲームウォーズ』とスピルバーグ」は如何だったでしょうか?
『レディ・プレイヤー1』の原作・脚本を務めたアーネスト・クラインについて時間をとって話すことができ、満足しております。
そうそう、5/5に下記イベントを行なうのですが、そろそろマジでチケットが売り切れそうなので、観覧を考えている方は早めの確保をお願いします!
○5月5日(土)開場12時、開演13時~
「山田玲司とDr.マクガイヤーのエロコンテンツバトル」 in 阿佐ヶ谷ロフトA
漫画家山田玲司とDr.マクガイヤーによるプレゼンバトル第二弾。
今回のバトルテーマは素直に「エロコンテンツ」!
「実はエロい」「意外にエロい」「本当はエロでしかない」……漫画やテレビや映画やその他のコンテンツについて、熱くトークバトルします。
果たしてどんなエロ話が飛び出すのか?!
イベント詳細は↓
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/86342
チケットは4/6 12時より↓から購入できます!
http://eplus.jp/sys/T1U14P0010163P0108P002257405P0050001P006001P0030001
マクガイヤーチャンネルの今後の放送予定は以下のようになっております。
○5月3日(木)20時~
「『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はなにがインフィニティなのか」
4/27に期待の新作映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が公開されます。
究極のお祭り映画にしてイベント・ムービーである本作を観ない人なんていないと思いますが、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)シリーズもこれで19作品目、ここからMCUに入るのに躊躇している人もいるかもしれません。
そこで、これまでのマーベル映画作品を振りかえると共に、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を100倍楽しめるような放送をお送りします。
ゲストとしてアメコミ翻訳家の御代しおりさん(https://twitter.com/watagashiori)を再度お招きする予定です。
○5月26日(土)20時~
「石ノ森ヒーローとしての『仮面ライダーアマゾンズ』」
『仮面ライダーアマゾンズ』はシーズン1、2がAmazonプライム・ビデオで独占配信されている特撮シリーズです。
いわゆる平成ライダー1期のスタッフが『アギト』でも『ファイズ』でも『カブト』でもやれなかった仮面ライダー、あるいは石ノ森ヒーローとしての限界描写を突き詰めたような内容で、自分はおおいに楽しみました。
そんな『アマゾンズ』が5/19に『仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判』として、劇場公開されるそうです。それも、これまで意欲作(と自分には思える)春のスーパーヒーロー大戦映画枠を廃止してまで公開する劇場版です。未だ詳細な公開日が発表されていないことが気になりますが、大いに期待しています。
そこで、これまでの『仮面ライダーアマゾンズ』を振り返ると共に、あるいは石ノ森ヒーローとしての『アマゾンズ』に迫りつつ、劇場版を予想するニコ生放送をお送りします。
今度のシロタロスは裏切らないぜ!
アシスタント兼ゲストとして、友人の虹野ういろうさんをお招きする予定です。
○6月初頭(日程未定)20時~
「最近のマクガイヤー 2018年6月号」
いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。
詳細未定
○『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』トークイベント@川越スカラ座
映画評論家の映画評論家の町山智浩さんが川越スカラ座で行なう『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』のトークイベントに、自分も登壇することになりました。
尊敬する町山さんのイベントということで今から緊張していますが、なにしろ『ロブスター』のヨルゴス・ランティモス監督の新作にして衝撃作です。全員が映画を観た直後ということで、面白いトークイベントになると思います。チケットは完売しましたが、現在キャンセル待ち受付中だそうです。
詳細は↓をご参照下さい。
http://event.k-scalaza.com/?eid=1264487
○Facebookにてグループを作っています。
観覧をご希望の際はこちらに参加をお願いします。
https://www.facebook.com/groups/1719467311709301
(Facebookでの活動履歴が少ない場合は参加を認証しない場合があります)
○コミケで頒布した『大長編ドラえもん』解説本ですが、↓で通販しております。ご利用下さい。
https://yamadareiji.thebase.in/items/9429081
さて、今回のブロマガですが、ニコ生の補講のようなことを書かせて下さい。
●アーネスト・クラインのゲームへのこだわり
まず訂正なのですが、いつもTwitterで感想をつぶやいてくれている鉄申砲さんのいうとおり、
(https://twitter.com/tetukouhou/status/990775184264085504)
『ブラックドラゴン』はベルトスクロールアクションゲームではなく、サイドビューのアクションゲームでした!
その後言及した『ダンジョンズ&ドラゴンズ タワーオブドゥーム』や『ドラゴンズクラウン』と完全に混同していたので、思わず口が滑ってしまいました。申し訳ありません。
同じ横スクロールのアクションゲームでも、ベルトスクロールと単なるサイドビューではゲーム性が全然違います。全くゲームをプレイしない人にとってはチンプンカンプンかもしれませんが、一回ずつでも両者をプレイしたことのある人には分かる筈です。
PS3の『カプコン アーケード キャビネット』だと完全無料でプレイできるので、放送前に1回プレイしとけば良かったな……
ただ、なぜ『ブラックドラゴン』がアーネスト・クラインにとってのオールタイム・フェイバレイト・ビデオゲームなのかは理解できます。アーネスト・クラインはTRPGである『D&D』や最初期のコンピューターRPGの一つといわれる『Dungeons of Daggorath』が大好きで、『レディ・プレイヤー1』の原作小説『ゲームウォーズ』でも「試練」の一つとして登場させています。
そして『ブラックドラゴン』は、鉄申砲さんもツイートしている通り(https://twitter.com/tetukouhou/status/990785823447502848)、当時としては書き込まれたグラフィックも、荘厳な音楽も、リッチでゴージャスな部類に入り、(当時としては珍しく)剣と魔法ファンタジーの雰囲気を濃厚に湛えたゲームでした。アクションゲームなのに貯めたお金を使って途中で装備品やアイテムを買うことができるというRPG要素も、この種のゲームでは初めてでした(カプコンゲーム史上、初めて「ゼニー」という貨幣単位が登場したゲームでもあります)。
また、初見殺しの罠と敵のパターンを全部覚えると比較的ラクに1コインでクリアできたのも大きな魅力でした(自分はできませんでしたが)。
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For one quarter, Black Tiger lets me escape from my rotten existence for three glorious hours. Pretty good deal.
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というアーネスト・クラインの言葉にニヤニヤしてしまいます(”Black Tiger”は『ブラックドラゴン』の北米地域でのタイトル名です。なんでも、ラスボスをタイトルでネタバレしないようにとの配慮からだそうです)。
アメリカにはヨーロッパのような騎士道文化中世時代がありません。だから、アメリカ人の剣と魔法ファンタジーへの憧れは日本人のそれと同じです。『D&D』を下敷きとしたVR世界でのイースターエッグ探しにおける「試練」の一つであると共に、自らの内的世界の郷愁を表現する方法として、つまりは青春時代の象徴として『ブラックドラゴン』と、25セントコインと引き換えに得られるglorious hours――栄光の時間を選んだわけです。
さすが、ビデオゲームオタクは面倒くさいぜ! と思うのですが、この面倒くささこそが原作小説の魅力だったりします。
「剣と魔法ファンタジーを横スクロールアクションのビデオゲームに落とし込む(カプコン製ゲーム)」という潮流は、『マジックソード』、『ザ・キングオブドラゴンズ』、『ナイツオブザラウンド』を経て、しっかり『D&D』の版権を取得した『ダンジョンズ&ドラゴンズ タワーオブドゥーム』と『シャドーオーバーミスタラ』で頂点を極めます。ただ、そのしばらく前から対戦格闘ゲームブームの煽りを受け、横スクロールアクションゲームというジャンル自体が下火になり、アーケードではほぼ絶滅してしまうのですが、『ドラゴンズクラウン』でまさかの復活を果たします。このご時勢に2Dグラフィックに拘るヴァニラウェアはもっともっとリスペクトを受けても良いのではないかと思いますよ!
●スピルバーグの映画へのこだわり その1
アーネスト・クラインが『レディ・プレイヤー1』に込めたこだわりがゲーム文化についてだとすれば、スピルバーグがこだわったそれは映画文化についてです。
分かりやすいところでいえば、映画では主人公ウェイドがことあるごとに「これはハリデーにとってのバラのつぼみだ!」というようなことを言います。
『シビル・ウォー』でピーター・パーカーが『帝国の逆襲』を引用していたように、『ジャスティス・リーグ』でバリー・アレンが『ペットセメタリー』を引用していたように、映画の中で他の映画のタイトルだけ引用して分かりやすく説明するというのは、現代の映画において普通のテクニックです。本作の「バラのつぼみ」は当然『市民ケーン』の引用で、大富豪が胸の内に秘めた孤独や郷愁を解き明かすキーワード――「鍵」となる言葉として出てくるわけです。ちなみに、80年代カルチャーにしか精通していない原作のウェイドは、『市民ケーン』のような1940、50年代の映画やサブカルチャーについてほとんど話題にしません。
ここでどうしても思い出してしまうのは、シネフィルとしてのスピルバーグです。『市民ケーン』はパン・フォーカスやクレーン撮影といった撮影技法、当時の新聞王ランドルフ・ハーストへの批判精神、時系列をシャッフルしたストーリーテリングと、映画史における傑作とされています。当然、シネフィルであり映画監督であるスピルバーグにとっては思い入れのある作品の一つです。
で、『ジョーズ』『未知との遭遇』『レイダース』と、次々と映画をヒットさせて若き成功者となったスピルバーグは、1982年にサザビーズのオークションで『市民ケーン』の撮影に使われたバラのつぼみマーク入りのソリを購入します(映画の最後に燃やされてしまうシーンがありますが、予備を含めて3台作られたそうです。
ソリを手に入れて満足げな若きスピルバーグをみると、最近見た同じような画像を思い出さずにはいられません。
そう、『レディ・プレイヤー1』の映画化権が売れて小金を手にしたアーネスト・クラインが、手に入れたデロリアンに乗って満足げな表情を浮かべている画像です。
この二枚の画像を眺めていると、『レディ・プレイヤー1』は実にふさわしい監督によって映画化されたのだなあと思わざるを得ません。
●スピルバーグの映画へのこだわり その2
もう一つは、『シャイニング』を台詞ではなく映像そのもので引用したことです。
原作でも、VR世界の中の「試練」の一つとして「映画」というコンテンツの中に入るシーンがあります。その映画は80年代のゲームオタクでありナードであるアーネスト・クラインらしく、『ウォーゲーム』や『ブレードランナー』でした。
スタンリー・キューブリックが監督した『シャイニング』は1980年公開の映画ですが、どう考えてもアーネスト・クラインではなくスピルバーグの好みの映画です(99年の段階で25回は観たそうです)。
劇中、主人公たちは"a creator who hates his creation"と"take the leap not taken"というヒントを貰います。
前者のヒントから、「原作者であるスティーブン・キングが最も嫌った映画」という推理を働かせ、映画『シャイニング』のオーバールックホテルに辿り着きます。
ここで大事なのは、スピルバーグはキューブリックと同じくらいキングをリスペクトしているという点です。子供時代への郷愁やノスタルジーをテーマとする点で二人は共通していますし、スピルバーグは『未知との遭遇』や『フック』ではキングがよく扱うミドルエイジ・クライシスをテーマとしていました。スピルバーグは『タリスマン』の映画化をしぶとく狙っていたりもします。
キングがキューブリック監督版『シャイニング』を嫌っていた理由は、今となっては明白です。売れる前のキングは山口達也以上のアルコール・ドラッグ依存症に陥っており、映画版は原作小説以上に容赦の無い形でそのことが主人公に反映されているからです。原作では、主人公は愛する子供を守るためにその身を犠牲にしますが、映画版では最後まで妻も子供も殺そうとします。映画版では幽霊が現れる随分前、ホテルに来た翌日から狂気の原稿を書いています。主人公が狂気に陥る過程に、幽霊は関係ないわけです。
映画のラストは、家庭を捨ててパーティで出される酒と女(腐乱死体でしたが)に惹かれた主人公の魂がホテルに囚われてしまったことが写真で示されます。
一方。もう一つのヒント"take the leap not taken"は、”leap of faith”を前提としたものになります。
キリスト教文化圏には”leap of faith”という言葉があります。信仰(faith)に基づいて結果を考えずに跳躍するという意味なのですが、現在この言葉の持つ宗教性は薄くなり、「論理を飛躍して決断する」「信頼に基づいて結果を考えずに行動する」「信じがたいことを敢えて信じる」「理屈ぬきに目をつぶって決断する」……といった意味で使われるようになりました。映画のシナリオでもこの概念は使われており、中盤で主人公が崖や滝から飛び降り、それが結果的に主人公の成長を促すことが最も分かりやすい使われ方となります。
劇中、二つ目の「試練」をクリアーする過程で、ハリデーにとってのtakenしなかったleapは、意中の女性に告白しなかった後悔であることが分かります。leap of faithすべき時にleap of faithしなかったからこそ、ハリデーは『シャイニング』の主人公のようにオーバールックホテルの写真の中に囚われてしまったわけです。このオーバールックホテルの写真が象徴するものは、OASISであり、ハリデーがついに手に入れられなかった意中の女性であり、家族です。
アーネスト・クラインが原作小説では自身が思い入れているゲームを題材にして行ったことを、スピルバーグは映画で自身が思い入れている映画を題材に行ったわけです。
●「現実こそがリアル」は誤訳か?
ここで考えてしまうのは、それらは同時に「現実」を象徴しているのかどうかという点です。
つまり、この映画はVR世界よりも現実を、ゲームや映画に象徴される「栄光の時間」よりも現実での痛みを引き換えに手に入れられる意中のパートナーとの出会いのような「まともな食事」や「本当の幸せ」の方が重要であると主張する映画なのでしょうか?
たとえば、『アバター』は地球に代表される現実よりもゲームのようなアバター星での生活の方が重要であり、主人公は最後にアバター星人となることを選びました。『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』では、ゲーム世界での冒険が主人公たちの内的成長を促しました。
これらに比べると、最後にハリデーが主人公に「現実こそがリアルなんだ」と告げる『レディ・プレイヤー1』は、テーマとして後退しているように思えます。ハリデーから主人公が受け取ったメッセージは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のような甘いノスタルジーと現実の苦さを測りにかけた苦いものであるし、最後に主人公が選ぶOASISの経営方針は「ゲームは一日一時間」ならぬ「OASISは週に五日間」というバランスをとったものであるのですが、それでもなんだか違和感が残るのです。
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