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マクガイヤーチャンネル 第124号 2017/6/19
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おはようございます。マクガイヤーです。

この日曜日に初めてAKガーデンと東京ドールハウス・ミニチュアショウに行ってみました。これまで自分はワンフェスくらいしか行ったことなかったので、驚きの世界でした。いや、ミニチュアフードって自分で作れるんですねえ。

ちょっと時間をみつけて1/12メトロン星人アパートとか1/12スナックとか1/12スラム街とか作ってみたいところです。



マクガイヤーチャンネルの今後の予定は以下のようになっております。


○6月24日(土)20時~

「サバイビング・ジブリ ジブリ・サバイバーとしての米林宏昌と『メアリと魔女の花』予想」

7/8より元スタジオジブリ現スタジオポノックの米林宏昌監督による期待の新作『メアリと魔女の花』が公開されます。

米林監督といえばカオナシのモデルで有名ですが、「麻呂」という仇名をつけられつつも、後進を育てられないことで有名なスタジオジブリで『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』という長編作品をしっかり形にして発表できた稀有な監督でもあります。

そしてこの二作には、あまり知られていませんが、スタジオジブリについてのメタ的な意味が込められてもいるのです。

そこで、『借りぐらしのアリエッティ』、『思い出のマーニー』の秘められた意味について解説しつつ、『メアリと魔女の花』について予想したいと思います。

是非とも『借りぐらしのアリエッティ』、『思い出のマーニー』を視聴した上でお楽しみ下さい。



○7月15日(土)20時~

「『ハクソーリッジ』と天才変態監督メル・ギブソン」

6/24よりメル・ギブソン久々の監督作である『ハクソーリッジ』が公開されます。

本作は2017年の第89回アカデミー賞において録音賞と編集賞を受賞しました。これまでどう考えても落ち目だったメル・ギブソンにとっての復活作なのですが、『ブレイブハート』『パッション』『アポカリプト』といったこれまでのメル・ギブソン監督作を観ていた我々には分かっていたことです。

メル・ギブソンが、稀代の変態にして天才映画監督であることを……

そこで、俳優・監督としてのメル・ギブソンについて振り返りつつ、『ハクソーリッジ』について解説したいと思います。

是非とも『ハクソーリッジ』を視聴した上でお楽しみ下さい。



○7月29日(土)20時~

「最近のマクガイヤー 2017年7月号」

いつも通り、最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。


詳細未定



○8月前半(日時未定)20時~

「しあわせの『ドラゴンクエスト』」

7/29に『ドラゴンクエスト』シリーズ久しぶりのナンバリングタイトルにして非オンラインタイトル『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』が発売されます。

『ドラクエ』といえば「国民的ゲーム」の冠をつけられることが多いですが、『ポケモン』『妖怪ウォッチ』『マインクラフト』といったゲームを越えたコンテンツが席巻し、ゲームといえば携帯ゲームである現在、事情は変わりつつあるようです。

そこで、これまでの歴代作品を振り返りつつ、ドラゴンクエストの魅力に迫っていきます。



さて、今回のブロマガですが、前回に引き続き映画『LOGAN/ローガン』についてです。

前回の後半と同じくネタバレ前提で書いてますので、お気をつけ下さい。





●ローガンがローラを受け入れる理由

で、そんな何一つ思い通りにならないおっさんと老人がX-23、ローラと出会うわけですが、彼女は「新しい希望」そのものなわけです。

まず、老老介護の果てには、なんの「希望」もないという絶望があります。プロフェッサーXは死を待つだけの状況です。ローガンも、日々老いてゆきます。人生における撤退戦です。作中でローガンが「希望」のように語っている船の購入も、根本的な解決法ではありません。現実において、老老介護が鬱病や殺人や心中になる場合があるのは、ここに理由(の一つ)があります。ローガンも例外ではなく、だから、自傷したり、アダマンチウムの弾丸を持ち歩いていたりするのです。

そこに現れる新しいミュータント、ローラは、「希望」以外の何者でもありません。ローガンよりも長く生きているプロフェッサーXはそのことをよく理解しています。ローラにスペイン語で話しかけるシーンは、プロフェッサーXが教育者でインテリであるという理由以外に、この場でプロフェッサーXだけがローラと心を開いているという表現でもあります。

ですが、ウルヴァリンはそうではありません。ウルヴァリンは長い間一人きりで生きてきたおっさんなのです。現実に目を向けてみましょう。長い間独身だったアラサー、アラフォー、アラフィフが、誰かと一緒に生活し「家族」や「家庭」を持つことに適応できるでしょうか? そんなわけないということは、周りでずっと独身のおっさんやおばさんをみれば、明らかなわけです。ローガンにとって最強の敵は、実のところ超能力を持ったミュータントやヘイトを溜め込んだ権力者といったアメコミ世界のヴィランなどではなく、「家族」や「家庭」だったのです。

なぜ「家族」や「家庭」が最強の敵なのでしょうか? それは、これまでローガンが「家族」や「家庭」や「愛するもの」を手に入れようと試みると、必ず悲劇が訪れたからです。本作には「赤毛の女」は出てきませんが、ローラはどことなくこれまでウルヴァリンが原作・映画版で愛してきた女たちに髪型と雰囲気が似ています。そして、本作で出てくるX-24は、「若い頃の自分」だけではなく、「家族や家庭に完全に背を向けた自分」の象徴でもあります。

更に、ローラには凄まじいまでの反骨精神があります。これは、X-MENたちが心の奥底に秘めていた(マグニートーたちは全面に出していた)精神そのものです。彼女が生首をサッカーボールのように蹴って登場するシーンには、観客の誰もが拍手を送ることでしょう。

当初はローラを遠ざけていたローガンですが、スマホでローラの過去をみたことをきっかけに、徐々に受け入れていきます。スマホに入っていたのは、兵器として生み出され、自分自身を受け入れることが出来ず、自分の爪で自分を傷つけるローラの映像でした。これはローガン自身がウェポンXとして改造され、逃げ出したものの、自分で自分に傷をつけるようになった現在まで――とばっちり重なっています。ローガンがローラを受け入れるのは、同じ遺伝子を持っているからという理由ではないのです。


●アメリカンヒーローと暴力

『ローガン』におけるこのような要素は、『ザ・ロード』『ペーパームーン』『許されざる者』といったアメリカの神話的西部劇的ルックと構造を引用しているのですが、その中でも『シェーン』は別格扱いです。

プロフェッサーXとローラがホテルのベッドに寝転び、『シェーン』を観るシーンがあります。「わしもおまえとおなじくらいの年齢に、ロンドンの映画館で観た」という台詞には「チャールズ・エグゼピアはロンドン出身なの!?」と戸惑ってもしまうのですが(パトリック・スチュワートのアドリブだそうです)、本作において『シェーン』は、映像と台詞そのものが引用されるに値するほどの役割を担っています。


西部劇はアメリカの神話と言われるようになって久しいですが、『駅馬車』『捜索者』『真昼の決闘』といった西部劇の名作とされる作品の中でも、『シェーン』は後年になって引用される回数が抜群に多いです。

まず、『シェーン』はそれまで悪いインディアンをヒーローであるガンマンが銃で倒す牧歌的な西部劇の流れに対して、リアリティを持ち込み、(後述する)ヒーローにとっての暴力というテーマを持ち込んだ画期的な作品でした。西部劇というジャンルを変えた作品だったわけです。

だから、何度も引用されるようになりました。「ぶらりと現れた流れ者のガンマンが一家を救う」「流れ者と少年の心の交流」という同じような構造を持った映画は、『ペイルライダー』『ワイルドレンジ』『ソルジャー』『ドライブ』……と、いくらでも挙げられます。『タンポポ』『遙かなる山の呼び声』は、日本を舞台にしたシェーンといっていいでしょう。

何度も引用されるということは、何度も語られるということであり、それだけ神話的であるということです。


アメリカが他の(先進)国家と異なる点は、国土の広さと、開拓地・植民地であったこと、そして戦争(銃と暴力の力)によって独立を勝ち得た点です。法の支配が及ばず、自分で自分の身を守らなくてはならない時期が長く続いたこと、暴力が国民の自由を保証してくれるのを実感したことは、アメリカの価値観に決定的な影響を及ぼしています。自主自立の精神が尊ばれ、憲法に政府を転覆する権利としての銃の所持が明記されているのは、ここに理由があります。

『シェーン』に出てくる悪党(放し飼い牧畜業者)もヒーロー(ガンマンとして生きるシェーン)も、自分たちが法の整備と共に滅びゆく存在だということを理解しています。一方で、『シェーン』という映画が、子供(ジョーイ)が鹿を銃で撃つ(が、失敗する)シーンから始まったり、家族の皆がシェーンのことを大好きになったりするように、銃という暴力を上手くコントロールして使いこなすことが大人(ヒーロー)になることだという価値観は、今でもアメリカに焼き付いています。

一方で、銃に象徴される暴力は、決して格好いいものではありません。『シェーン』の劇中、ジョーイが自分もシェーンのようなガンマンになりたいと銃の練習を始めますが、母親が咎めるシーンがあります。しかしその母親も、シェーンのことが大好きなのです。ここには、アメリカ人の銃と暴力に対するアンビバレントな思いが象徴されています。


●『ローガン』における『シェーン』

ですが、『ローガン』は『シェーン』を引用しつつ、「いま」が『シェーン』とは全く異なる時代と状況であることを描いてもいます。

ホテルで『シェーン』を観た後、「アメリカ」や「西部」を象徴する馬がきっかけで農場を営む一家と出会います。夫婦に息子一人という家族構成が『シェーン』の農場一家と全く同じなのですが、彼らは黒人の一家なのです。

だから、彼らが白人たちに水ポンプを壊される等の嫌がらせに別の意味が発生します。『シェーン』での嫌がらせは、牧畜業者と開拓農家という、同じ土地を利用する二者間のあくまでも経済的な理由によるものでしたが、『ローガン』でのそれは白人とマイノリティという、人種問題が強調されているのです。

そして、『シェーン』の主人公は農場一家に愛されますが、『ローガン』は最後の最後に銃を向けられます。思い返せばローガンは、前作『SAMURAI』でも前々作『ゼロ』でも、命を助けたはずの人間から、命や能力を狙われました。人を傷つける能力を持つローガン(やミュータント)の存在こそが殺戮の原因なのかという葛藤やアンビバレントな問題意識は、『シェーン』の頃より深刻な問題として認識されています。


このアンビバレンスを抱えているのはローガンだけではありません。プロフェッサーXも同様です。

本作でローガンたち3人以外のミュータントの姿がみえないのは何故なのでしょうか? 作中、プロフェッサーXは二度ほどテレパシー能力を暴走させます。作中では名言されませんが、十中八九、これが原因です。世界最強のテレパスであるプロフェッサーXが、アメリカ政府から大量破壊兵器としてマークされているというドナルドの台詞も、これを裏付けます。プロフェッサーXのテレパス能力は、人と人(あるいはミュータントとミュータント)とを結び付ける力であると同時に、「暴力」でもあります。だから、プロフェッサーXは自分の手で自分の愛する存在を亡き者にしてしまったのです。

これは本作のみならず、『X-MEN』というシリーズや他のアメコミヒーローに共通するテーマでもあります。


劇中で引用される『シェーン』の台詞の前後はこうなっています。


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「人間は自分の器を破ることはできない。頑張ったが駄目だった」

「シェーン、みんな貴方に居て欲しいんだ」

「ジョーイ、人を殺したら、普通に生きてはいられない。後戻りはできないんだ。正しいにせよ間違ってるにせよ、それは牛の烙印と同じなんだ。烙印は消えない。

家に帰ってママに伝えるんだ。全部大丈夫だって。谷から銃は消えた」

「血が……怪我してるよ!」

「大丈夫だ。パパとママの家に帰って、強くまっすぐな男になるんだ。二人を大切にしろよ」

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つまり、ここで行われているのはアメコミヒーローと西部劇ヒーローの重ね合わせです。どちらも(「銃」に象徴される)暴力を糧とし、暴力で自由を掴みとり分け与える存在なのですが、どちらもそう遠くない未来に滅び、死にゆく存在であることを理解しています。


●ローガンからローラへ

映画の後半で描かれるのは、老いたローガンからローラへの「継承」です。

たとえば、ローラは倒れてしまったローガンを病院に連れて行くために車を盗みますが、これはローガンがこれまで普通にしていたことです。

この盗んだ車がピックアップトラックなのも意味深です。アメリカではピックアップトラックはその力強さや荷台スペースの広さから、西部開拓時代の馬車に重ね合わせられることがあります。


ローガンが疲労からトラックを運転できなくなり、ローラが運転を代わるシーンは超重要です。ドライバーを代わるということは、旅の一行の人生というハンドルを握る者が代わったことを意味します。その後続く日差しの陰りと日没、朝焼けは、説明する意味も無いでしょう。

ローガンが寝ている間に子供たちが髭を切り、(これまでの映画シリーズにおける)ウルヴァリンと同じ顔になるのも、シリーズを観続けてきた観客にとっては泣ける演出です。映画において髪型を変えるとか髪や髭を切るとかいったシーンには「内面が変わる」という意味があるのですが、いよいよクライマックスに向けてローガンの内面が変化してきたことを意味します。


思えば、この「エデン」という土地に辿り着くのにもコミックブックが重要な意味を果たしてきたわけですが、子供たちの一人がウルヴァリンのフィギュアを持っている姿には、ニヤニヤを通りこして呆れてしまう人もいるかもしれません。ですが、これは最後にローラが墓の十字架を置きなおすことに繋がっています。

本作はアメコミ映画というジャンルを離れて、遠いところに到達しました。ローガンがウルヴァリンというマスクにタイツの昔ながらのアメコミヒーローとして活躍しているコミックブックが登場するのは、そのようなアメコミ世界とは離れた世界を舞台にしているという本作のリアリティラインを批評的に示しているわけですが、一週回って、コミックブックやXマークやアメコミフィギュアがそれなりの役割を果たしているのです。つまり、作り手は最後の最後までアメコミヒーローへのレスペクトを示そうとしているのですね。


エンディング・ロールで流れるジョニー・キャッシュの”When The Man Comes Around”は、死んだローガンが最後の審判を受けることを意味しています。

どこで審判を受けるのかというと、『風立ちぬ』でおなじみの辺獄です。

本作の監督ジェームズ・マンゴールドは、『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』というジョニー・キャッシュの伝記映画を作るくらいキャッシュのことが大好きなのですが、本作のローガンはキャッシュに似ています。


果たして、ヒーローにとっての英雄性と暴力性というアンビバレンスを、新しい世代であるローラたちも受け継いでしまうのか、もしくは乗り越えるのか――これは、監督が準備中というローラを主役にした続編で描かれることでしょう。


●タラレバ娘ダークナイト問題

そんなわけで、『ローガン』はまごうことなき名作だと思うのですが、そう感じるのは自分が男だからかもしれません。

果たして女性は、それも『タラレバ娘』の倫子のような女性は『ローガン』をどう評価するのでしょうか?