season2~ふたりの陰陽師編~
第一話『黒の陰陽師』後編
著:古樹佳夜
絵:花篠
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吽野と阿文、そして満月は、
不思議堂の裏手にある暗い夜道を進んでいた。
月は南に向かって宙空に昇り、雨雲の隙間から上弦を覗かせている。
「あ〜あ。俺のネギマ……」
吽野はガックリと肩を落とした。歩きながら、飲み足りないとばかりに、
ブツクサと文句を垂れるのである。そんな相棒を、阿文は肘で小突いた。
「なんでもないならそれでいい。その時は、また店に戻って一杯やろう」
宥める満月に向かって、吽野は特大のため息を吐いた。
「ねえ、なんでそんなに急ぐのさ」
「別に急いじゃいない。お前こそ、さっさと歩けよ」
「んなこと言ったってぇ……」
上背のある満月の歩幅は大きい。投げやりにそぞろ歩くだけの吽野など、
すぐに置き去りにする。
見かねた阿文が吽野の背を押し、なんとか商店街を抜けた。
そろそろ、神社に着くというところで、三人は異変に気づいた。
「おい、様子がおかしくないか」
境内へ通ずる階段の前で、満月は目を眇めた。
追いついた吽野と阿文も察して、眉根を寄せる。
妙な臭いがする。その上、鉛のように空気が重い。
これは瘴気だ。邪な気を起こさせる、厄災の源だ。
神社には、主人の依代がある。
既に役目を終えているとはいえ、神聖なものに変わりはない。
神の加護を与えた境内に、こんなに瘴気が充満するなんて――
嫌な予感がする。沸き起こる不安が、阿文の胃の腑を泡立たせた。
「主人様!」
阿文が駆け出す。その腕を、満月は勢いよく掴み、引き留めた。
「俺が先に行く」
「でも……」
「信じろ。お前らよりは、こういうことに慣れているから」
満月が力強く告げるので、阿文は渋々従うことにした。
石段を一歩、また一歩と登るたびに、瘴気は一層濃くなる。
加えて鼻が曲がりそうなほどの臭気が足元を覚束なくさせた。この臭いは、いったいなんだ。
「みろ」
石段を登り切ったところで、満月が奥の境内を指差す。
その光景に、吽野と阿文は愕然とした。
朱色に塗られた境内一面、数え切れぬほどの呪符が貼り付けられている。
禍々しい紋様の描かれた符からは、紫色の煙が立ち上っている。
社を支える木柱を焼き焦がし、神域を侵していた。
居ても立ってもおれない阿文は社に駆け寄った。吽野も後に続く。
二人は揃って社の扉を開け、祀っていた銅鏡に手を伸ばした。
チリリ――
鈴の弾ける音がした。
小さな社の中から、どさりと重さのあるものがまろび出る。
投げ出されたのは少女の半身だ。
阿文は、ぐんにゃりと力のない肢体を抱き止めた。
「それがお前たちの主人だな」
かつて、正気を失った阿文を取り戻すため、
この神を自身に降ろしたことがある満月だが、
その真の姿を目の当たりにするのは初めてだった。
弛緩した腕は白く透き通り、肌は爪が沈み込むほど柔らかい。
髪は絹糸のように細く、白みがかった黄緑色だ。
見るからに無垢で弱々しい。
「常世神か」
一瞥しただけで、満月は見抜いた。
常世神とは、古くから祀られる神である。
その姿は芋虫の形を成し、常世の国に住み、
祀る者に長寿と富と幸福を約束する。
「このお姿で顕現なさることは初めてです」
「無理やりこちらに引き摺り出されたんだ」
吽野が悔しげに言って、阿文を手伝って主人の身体を支えるが、
ぴくりともしない。
シャッ――!
「痛っ……」
突然悲鳴を上げた吽野を、満月と阿文は凝視する。
見れば、吽野の手にさっきまで気を失っていた主人が噛み付いていた。
「主人様、やめてください! それは吽行の手ですよ!」
その形相は恐ろしく、正気を失っていた。
鋭い牙が吽野の右手にメリメリと音を立てて沈み込んでゆく。
吽野は歯を食いしばって耐えた。仕える主人を乱暴には振り払えない。
その上、噛まれた部分が熱い。
灼熱で炙られているようだ。
傷口は火傷のようにジクジクと痛み、吽野の視界を霞ませた。
一方阿文は、二人を引き剥がそうと必死になるが、うまくはいかなかった。
見かねた満月が、主人の首をむんずと掴む。
おかげで、主人の口はようやく吽野から離れた。
「た、たすかった」
「大丈夫か」
阿文は焦って、吽野の手首を持ち上げる。
傷痕はみるみる広がって、手首にまで達する。
野焼きのために放たれた火が、
枯れ草を蹂躙して焼き尽くす光景に似ていた。
侵食される恐怖に、吽野は言葉を失った。
満月は吽野の肩を揺さぶる。
「これで押さえ込んでおけ」
正気付かせるように、手首を握りこむと、大きな掌が傷口を覆い隠す。
「何を?」と吽野は尋ねたが、満月は、
「後で何とかしてやる。今は耐えろ」
と言うだけで、すぐに手を離した。
見れば、吽野の手首にはくっきりと印が浮かび上がっていた。
目を離していた隙に、主人の身体がメリメリと音を立てる。
その柔肌を割って、何かが頭を覗かせた。
寄生虫を思わせて、吽野も阿文も思わず身震いする。
二人は絶句した。
わけもわからず、今にも取り乱して叫び出してしまいそうだった。
目の前で何が起こっているんだ。状況を理解しようと必死だった。
何か飛び出した。現れたのは、ぶよぶよと半透明――
「な、なんだ、こりゃ」
「蛇、なのか……!?」
それは、みるみるうちに長く、太く、大きくなって、主人に絡みつく。
次第にその身体は硬くなり、硬い鱗が半月の月光に照らされて鈍く光った。
主人は立ち上がった。いや、宙を舞っている。
蛇だと思っていたものから、黒光する鱗を割って、
大きな翼が生えているではないか。
流石の満月も信じられない様子だ。
蛇に翼が生えるなんて、おかしな話だ。
ブヴォ!
今度は、口から炎を吐き出した。
「ねえ、何あれ!? なんの妖怪!?」
犬が恐怖で哮り立つように吽野が吠える中、満月は落ち着くように促す。
「あれは、騰蛇(とうだ)だ」
吽野も阿文も、そんな名の怪異は聞いたことがない。
「すごく強そうなんですが……」
「どうやって倒すんだ!?」
満月から情報を引き出したいところだが、
満月は「待てだ!」と一喝して、人差し指を立てる。
まるで犬に合図するような仕草で、吽野は内心カチンときていた。
それを他所に、素早く尻ポケットに手を突っ込んだ満月は、
数枚の霊符を取り出した。
「そんなんで何とかなるのかよ!?」
「やるしかないだろ」
「主人を傷つけないでください!」
阿文はたまらず叫ぶ。
「約束はできないぜっ!」
満月は人差し指と中指で霊符を挟み、騰蛇めがけて投げつけた。
それは軌道上でみるみる鋭くなり、杭のように尖って、騰蛇の身体に突き刺さる。
グギャッ――
鈍い声が上がった。ところが、硬い鱗にはじかれて、
ほとんどの杭は体表を掠めて地面に落ちた。
たった一本だけが、肉を抉って数メートル先の地面に突き刺さっている。
「もう手持ちが尽きた」
満月は太刀打ちできないと悟り、舌打ちした。
そして最後の手段だと、吽野と阿文の方に視線を投げた。
「おい、お前ら。ちょっと手伝え」
「手伝えって、どうすりゃいいのさ」
「今から俺の力を一部託す。あとは俺の言う通りに戦うだけでいい」
「どうやって?」
「印を渡す」
「それって、俺たちを式神にするってことか!?」
「察しが良くて助かる」
「冗談じゃない!」
またも吽野は叫んだ。
陰陽師のいいように扱われて、捨て身の攻撃をしろというのか。
こんな強敵を相手に、無事でいられる訳もない。
「でも先生、このままでは主人様があいつに取り込まれてしまう。ひいては僕たちだって消えてしまうんだぞ」
阿文の言う通りだった。吽野は閉口した。
「安心しろ、悪いようにはしないから」
そう言って、満月は両掌を拝むように合わせた。掌の隙間から青い炎がチリチリと爆ぜる。
「何するんだ」
「ちょっと黙ってろ」
次の瞬間、満月は問答無用で二人の額に両手を押し当てていた。
その刹那、手の熱さに二人は怯んだが、満月の掌はすぐに離された。
二人の額には複雑な紋様が浮かび上がっていた。
「さあ、いけ」
その一声と同時に、吽野も阿文も、強制的に四つ這いになってしまう。
「ちょ、え、ええ!?」
「身体が、勝手に!」
全身に霊力が漲るのを感じる。
気づけば、二人は真の姿を取り戻し、青い炎を纏っていた。
二人はまるで獅子と狼のような格好で、
肩をいからせて、前へ、前へと突き進む。
身体中のタガが外れ、霊力はかつてないほどに増幅しているが、
そのすべてが自由にならない。
満月の意のままに操られているのだ。
「ねえ、待って、ちょっと、待って!」
抵抗虚しく、身体は騰蛇へとどんどん吸い寄せられていく。吽野は焦って叫んだ。
「無理に動くな。俺が操縦してやる」
「せ、せめて二足歩行させてくれよ!」
「いいから堪えろ。俺だって必死なんだっ」
吽野が騰蛇に回り込む。阿文は鎌首をもたげる騰蛇に全身で喰らいつく。
一心不乱に首を振りたくる騰蛇は、阿文を振り払おうと全力だ。
その間に、吽野は敵の身体に飛びつき、渾身のひと噛みで対抗する。
ギャーッ――
鳥を生きながら引き裂くような、鋭く、恐ろしげな声があたりに響きわたる。
「うぐ……」
吽野は顔を顰めた。手の甲の傷が脈打つ。感じたことのない痛みだ。
まるで、自分の傷と騰蛇の傷が呼応しているように疼く。
「よし、そのまま、抑えとけよ」
満月が呪詛を唱え出すと、その声に合わせて、
騰蛇は身を捩り七転八倒した。
のたうち回る金切り声が、三人の鼓膜をつんざく。
一方、腕を回して、騰蛇に必死に取り付いている二人は、
揺さぶられながら悲鳴をあげた。
「た、助けて、振り落とされる!」
満月の術が効いているのだろうか。騰蛇は大暴れだ。
主人もろとも身体を宙に浮かせては、地面に倒れるを繰り返した。
やがて、断末魔のごとき悲鳴を発すると、
騰蛇はぴたりと動きを止めて、そのまま、雲散霧消した。
おかげで吽野と阿文は身体の支えを無くし、
地面に強かに尻を打ちつける羽目になった。
呻き声をあげ、二人は身を起こす。
「やっつけたのか」喘鳴を繰り返す吽野が聞く。
「いや、たぶん逃した」満月がこぼした。
まるで、幻だ。あたりに静けさが戻った。
地面には先ほどの少女の姿はない。
代わりに、小指の先ほどの瀕死の芋虫が地面に転がっている。
「主人様……!」
阿文は急いで主人の元へ駆け寄り、慎重に摘んだ。
そっと手に乗せるが、動く気配もなかった。
様子を見かねた満月が、膝をつき、阿文の手に両手をかざす。
「何をしているんだ?」
吽野は思わず聞くが、満月は集中していて答えなかった。
代わりに、腕に走っていた呪詛の刺青が、
意思を持つ生き物のように指先まで這っていくのを、しかと見た。
そこから、驚くべきことが起こった。
芋虫が口から糸を吐き、全身を仰け反らせ強張ったかと思うと、
瞬きの間に、身を固い殻に閉ざした。
阿文の手の中で、常世神は金色に光り輝く蛹となってしまった。
「力の回復を図るために、わざとこの姿になったんだろう」
「蛹に?」
阿文が聞くと、満月は頷いた。
「呪いが身体を蝕んでいたからな。俺の霊力を分け与えたが、あとは自身で回復するしかないだろう」
「……主人の呪いは解けたんですよね?」
「いや、呪詛は完全には払拭できてない」
聞いた阿文は肩を落とした。
「蛹の状態は常世神の本来の姿ではない。ちゃんと、お前らの手で保護しないと」
「そうですね……このままでは話すこともままならないですし」
弱った様子で、阿文は額に手をやる。
件の一件以来、通信しづらい状況ではあったが、
今となっては主人の加護さえも失っている。
状況は最悪だ。
「どうすりゃいいんだよ」
吽野も同じく絶望して、弱音をこぼした。
その問いに、満月はしばし考えを巡らせ、顎を擦った。
「羽化させる……とか?」
そうか! 吽野も阿文も顔を上げる。藁にも縋る思いで、満月に質問した。
「そんなこと、可能なんですか?」
「知らん」
一縷の希望だったのに。その一言が、二人をつき離す。
「どうするかなんて、お前たちで突き止めろ。お前らの主人だろうが」
もっともであるが、いまだかつてない難題に二人とも唸り声を上げた。
問題は他にもあった。
「先生! その右腕、大丈夫なのか……?」
吽野はギョッとした。先ほど主人に噛まれた手の甲が、どす黒く変色している。
おまけに、満月に施してもらった対抗の印も、薄まってきているようだった。
「そうか、お前も呪詛をもらっちまったんだった」
途端に、痛みが追いついてくる。吽野は身体を強張らせ、脂汗を滲ませた。
隣の阿文も、心配そうに吽野の腕を擦る。
「満月さん、この傷は治りますよね」
問われた満月は眉根を寄せ、難しげな顔をした。
「侵食が異様に早いのが気になる。神や神獣を侵すほどの呪詛だから、一筋縄じゃない」
治ると断言されなかったことに、阿文の表情も曇る。
「誰が、何のためにこんなことを……」
「理由はわからん。だが、あの式神には心当たりがある」
「式神、なんですか、あれが!?」
二人は驚きを隠せない。
満月が言い淀んだ。この先に待ち受ける困難に、満月自身も尻込みしたのか。
ともかく、この状況を打開する糸口は満月にある。
二人は懇願の眼差しを送り、ようやく満月は重い口を開いた。
「……あれは、安倍家の式神だった」
「ふふ、バレちゃった?」
それは唐突な出来事だった。
やわらかく、冷たい響きを持った青年の声がした。
一同、突然現れた気配に居竦まる。
声は満月の後ろからした。振り返ると、
ほっそりとした、白い人影が立っていた。
月光が照らし出したその姿は、頭からつま先まで、雪のように白かった。
すっきりとした面立ちは人形のように美しいが、
感情が抜け落ちて不気味な印象だった。
それはまるで、柳の枝をから覗く女の幽霊の佇まいだ。
「雪明(ゆきあき)……!?」
満月にそう呼ばれた青年はうっすらと笑みを作くる。
吽野と阿文はすっかり凍りついてしまった。
「痛そうだね、その傷」
青年は吽野視線を送り、黒ずんだ手の甲を指差した。
「あんたの仕業か」
酷薄な笑みを浮かべる彼に、吽野は警戒して唸る。
「そうさ。僕にしかとけない呪詛だから」
風が吹いて、長い髪が揺れ、目元が歪む。
笑っている。笑っているのだが――その笑顔は禍々しさを放っていた。
吽野は恐怖に打ち勝とうと、奥歯を噛み締めた。
徐に、青年は吽野を指差す。
何か危害を加えられるのかとビクついて、吽野は後ずさった。
ところが、青年はくすりと笑っただけだった。
「その狛犬を連れて、僕を追いかけてね、約束だよ」
満月に向かって、青年は言った。
「おい、お前……」
満月が言い返そうと歩み出た時、その姿は消えた。
音もなく、瞬きの間の出来事だった。
青年が去り、ようやく吽野と阿文は詰めていた息を吐き出した。
「誰だ、あいつ」
彼は吽野の正体を一瞥で見抜いていた。
それに、この出来事の犯人らしき口ぶりでもあった。
「満月、お前、あいつを知ってるんだろ、答えろよ」
渦を巻いた疑問が、焦りと怒りで詰問に変わる。
観念した満月は、詰めていた息を吐き出して答えた。
「雪明は、俺の幼馴染だ」
それだけ言って、あとは押し黙った。
吽野は察していた。このままでは、自分の身が危うい。
主人の力も封じられている今、助けは期待できない。
消滅に向かってまっしぐらに突き進んでいる。
それならば。吽野は決心した。
「満月、俺たちをあいつのところに連れてってくれ」
「なに?」
「ここにいたって埒が開かない。俺だっていつまでもつかわからないんだ。一刻を争うってんなら、あいつのとこに行くしかないだろう」
かつてない吽野の気迫に、阿文は驚いた。しかし、その様子に鼓舞されてもいた。
阿文はしっかりと吽野見据えて、頷いた。
「僕もついていく」
「阿文クン?」
阿文に迷う理由はなかった。
かつて吽野は阿文の危機を辛抱強く支えてくれた。
唯一無二の相棒のためなら、一蓮托生、火水も厭うつもりはない。
「不思議堂は一次休店だ。ノワールも、心苦しいが、商店街の誰かに預かってもらおう」
「長い旅になるぞ」
満月の投げかけに、二人はしっかりと頷いた。
【第一話 了】
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