任天堂とセガ。ファミコン時代からおよそ20年に渡って、ハードメーカーとしてライバル同士だった両社は、今も日本のゲームメーカーを代表する会社である事は事実です。
しかしながら、セガは日本人が立ち上げたものではないことをご存じでしょうか? なんと創立者は4人のアメリカ人だったんです。
興味深いこのゲーム市場の歴史は第二次世界大戦から幕を開けます。ちょっとお勉強気分で、セガの初まりをご紹介します。
日本独自の文化、花札などで有名な任天堂とは違い、セガの原点は2つの会社と4人の起業家にあります。彼らは金儲けのチャンスとして、占領地となった日本に在住していたアメリカ軍人たちに目を付けました。
以下は、セガの全体的な歴史ではなく、セガの原型となるアメリカンな2社が日本国内でアミューズメントマシンの開拓を含めた初期段階のお話です。
アメリカが戦争に参戦するより前・1940年に、マーティン・ブロムリー、アーヴィング・ブロムバーグ、ジェームズ・ハムパートという3人のビジネスマンが、ハワイを拠点として「スタンダード・ゲームズ」を立ち上げました。
彼らは、戦争を目前とした当時、軍基地には多くの男が集まるので、暇つぶしに何かが必要になると考えました。結果的に、スタンダード・ゲームズ社は主に米軍基地向けにスロットマシンの商売を行う事になったのです。
戦後、スタンダード・ゲームズ社は、ビジネスの取引先が軍隊へと集中することにより社名をサービス・ゲームズ(Service Games)(訳注:「Service」は「(軍隊に)服す」などの意味が含まれている)に変更しました。
終戦後、日本が連合軍の占領地となった事をきっかけに、アメリカ兵たちの自由な時間が多くなたことがビジネスチャンスだと考えました。米国本土でギャンブルを違法化しようとする動きが増えるなか、1951年にサービス・ゲームズ社は東京へ移動する事を決断。翌年、社名を「サービス・ゲームズ・オブ・ジャパン」へとまた変更しました。
拠点を日本に変える事により、某社の商売先は米軍基地以外はもちろん、日本人の消費者や企業にまで拡がっていきました。
それと同時期に、1954年にはアメリカ人(デヴィッド・ローゼン)が別のアミューズメント系の会社を日本で創立。ローゼン・エンタープライズは写真ボックスの輸入を専門とし、後々自動販売機などの機械にも手を出す事に。
1965年、より確実なビジネス繁栄のため、高度経済成長中の日本にて合併することを両社は決断。そして、会社名は、セガ・エンタープライズ(訳者注:「セガ」は「SErviceGAmes」の省略)となりました。
66年、セガはアーケードゲームを初めてリリース。ゲームセンターが世間にない頃に登場した『ペリスコープ』は潜水艦を手動で操るバトルゲーム。プレイヤーのターゲットはプラスチック製の小型船、水雷は点滅する電球で表示されていました。
『ペリスコープ』はヒットしたお陰で、米国にまで輸出される事になります。これがきっかけとなったのか、それ以来、セガはアーケードゲームの道を歩むようになったのです。しかし同時に、それは在日アメリカ出身者の会社としての時代に終わりを告げることになりました。
1969年、大企業である「Gulf+Western」がセガを吸収。セガのビジネスを大きく拡げたのにも関わらず(セガの初家庭用ゲーム機、SG-1000の開発など)、ATARIを代表とする1983年に起こったゲーム業界の経済的崩壊(アタリショック)のため、完全にゲームにビジネスを移転していたセガも危機の状況になってしまいました。
結果的に、セガは2つの会社に分裂。アメリカ側はピンボール専門社のBallyへ、そして日本側はアーケード業界の大物、中山隼雄氏とセガ創立者の一人であるデヴィッド・ローゼンの元へと引き継がれました。
翌年、一新したセガは日本のIT業界の系列CSK ホールディングスが買収(会長を務めた大川功氏はローゼン氏の親友でもありました)。セガのトップを率いる最後のアメリカ人となったローゼン氏はやがてセガ・オブ・アメリカの取締役を務め、1996年に退職されるまではセガの会長の任務も果たされました。
ゲーム創世記:セガを立ち上げた4人のアメリカ人[Kotaku JAPAN]
Meet The Four Americans Who Built Sega [Kotaku]
(サチ・コクスン)