湯川専務&タッキーによる「草の根販売計画」のおかげで心に残る名機になりました。
市場に新たな世代のゲーム・コンソールがお目見えした時、人々はついつい過去のゲーム機を振り返り、懐かしんだり憂いたりします。
そんな中でも、もう家庭用ゲーム・コンソールを生産しないセガが出した名機、『ドリームキャスト』を思いっきり振り返り、『Dreamcast Worlds』なる本まで出版してしまった、イギリスの歴史研究家にしてジャーナリストのゾーヤ・ストリートさん、という方がいらっしゃいます。
今回はそんな、1990年代後半に登場した『ドリームキャスト』を、ストリートさんの著書からいくつか抜粋して、私たちも振り返ってみるとしましょう。
今こそ見直そうぜ、『ドリームキャスト』という夢を!
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■ドリームキャスト・ワールド
『ドリキャス』がリリースされた当時、セガ・オブ・アメリカで社長兼COOをしていたバーナード・ストラー氏。2007年のインタビューで当時を振り返って話している内容によると、ストラー氏がセガから離れたことと、コンソール機としての『ドリームキャスト』の失敗は、
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ハードウェアに対しての責任が不足していたからだ。
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とのこと。
彼は、セガが持つモットーの「ソフトウェアがハードウェアを走らせるべきである」には賛成していましたが、「ゲーム機を生産したファースト・パーティーとして、マーケティングに責任を持たなければ、破滅的な失敗をもたらすのは明らかだった」とおっしゃっています。
加えてストリートさんの意見では、それだけが原因にあらず、恐らくはセガがインフラ整備やブランディングなどを、
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外部の会社とパートナーシップを結び、上手にやり取りするのが苦手だったこともあるだろう。
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という推察としています。
■世代とは一体なんだ?
ゲーム・コンソールについて話をする時に、それが第何世代であるのかという話題は避けて通れないでしょう。『ドリキャス』は第6世代に当たるのですが、1999年当時のゲーム産業はどこの国に行っても、もうすぐ新世代ゲーム機が登場するぞ! という空気が非常に強く漂っていた時代でもあります。
家庭用ゲーム機を製造するメーカーはそれぞれ、他社では使われていない技術を投入しようと、競争も激しかった時代です。ゲーム機の種類によっては、2~3年で新しい仕様にモデルチェンジしてリリースされている事もありました。業界内で生き残るため、こうした変更を重ねる潮流が自然とゲーム機を進化させることに繋がり、結果として世代が重ねられるようになったのです。
メーカーとしての利点はまだあります。新機種がでると、その前の機種を処分することになりますが、お客さんは新機種に食いつくので、メーカーの売り上げを増やす意味でもこのような家庭用ゲーム機のモデルチェンジは、予め計画された戦略でもあるのです。そしてそれは同様に、携帯用ゲーム機だけでなくゲーミング用のコンピューターにも当てはまります。
しかし、歴史研究家のストリートさんは、そのような世代交代はあまりにも狭い範囲の出来事にすぎないので、もっと広く議論の場があっても良いではないか...とおっしゃっています。
さらには、「一体誰が世代を決めているのか?」という不思議な疑問が持ち上がるのです。たとえば本題の『ドリームキャスト』ですが、セガで働いていた人たちにインタビューしてみても、話がややこしくなってしまう場合がよくあるのだとか。
セガでゲームをプロデュースされていた田中俊太郎さんいわく、セガはまるでご自身の外部にある会社という風にお話をされるのだそうです。『ドリキャス』の情報も「セガから来た話だ」...というように、少々他人事のようにも感じられます。
『ドリームキャスト』のライブラリーとツールを開発された、トム・シャーテスさんもまた、このゲーム機を他人のモノという感じでお話をするそうです。セガという会社では、ゲーム機のデザインが内部で分断されていたようで、マシーンのネーミングやブランディング、広報なども1つ、もしくはそれ以上の会社に外注されていたのです。
興味深いコトですが、セガというブランドの仮面を一枚剥ぐと、中には非常に複雑な構造が何層にも折り重なっていたんですね。
セガが次世代への後継機をリリースする計画を念頭に、現行機を作っていたとしても、とりあえず良しとして、もしも次世代機が同じネットワークで繋がっている、社外メーカーなどから提供されたモノだったりしたら...? と考えてみましょう。
そして、そのゲーム機は社内の人間が関わった分、セガらしさを付加され、第三者の開発者の元にも届くのです。そんなこんなで、『ドリームキャスト』はドコか偉い人のいる山の頂上から転がされ、ちょうど良いタイミングで適切なスタッフの元を通過してきたのではなかろうか? とストリートさんは考えています。
ちなみにですが、読者の皆さんは以前にご紹介した「サターン」のオンライン用モデル「プルート」の記事を覚えているでしょうか? 今思えばあの時にもう、当時のセガ内部事情をチラっと語っていたSuper Magneticさんから、その混沌っぷりが伝わってきていましたよね。
とりあえず、ゲーム機の「世代」に関しての疑問は一旦置いといて、購買層であるゲーマーにとっても、デベロッパーにとっても、世代交代という見えない力学が存在するがために、新機種が次々と登場するのは悪いことではないのでしょう。ストリートさんは、ネットワーキングの接続性とグラフィック・プロセッサーの観点から、『ドリームキャスト』こそが本当の意味で、初めて世代交代した家庭用ゲーム機ではないか? と提唱しています。
■競合他社のマシンにソックリ?
1999年、日本のゲーム・ディベロッパー向けの入門書に『コンピューターゲームのテクノロジー』という1冊があったそうです(おそらくこの本だと思われます)。この中には、プレイステーションのことが3ページに渡り書かれており、ニンテンドー64については半ページ、そして『ドリームキャスト』とPC用ゲームについては数行ずつの記載があったのですが...その先2ページに渡り、当時まだリリースされていなかった「プレイステーション2」のことが書かれており、それが次世代機としてもてはやされているのだそうです。『ドリキャス』についても、「プレステ2」との関連性から、ちょっとだけ書かれていたようですが...。
実はその関連性というのは、ズバリ初代プレステとの類似性なのだそうです。四角くてグレイがかった色み、丸い上蓋をバネ仕掛けで上方向に開いてディスクを入れる...。まぁ、言われてみれば似てはいますよね。
その後「プレステ2」は大きなモデルチェンジを遂げるコトとなるのですが、当の『ドリキャス』は......でした。ついでに言いますと、テレビで放送されていたコマーシャルも、湯川専務を起用したユニークかつ自虐的コミカルなもの、対するソニーは一貫してクールなイメージだったので、今にして思えばクール路線のほうがベターなイメージ戦略だったのかな、と考えることができます。
ストリートさんは、『ドリームキャスト』に採用された色も、すでに流行遅れだったとおっしゃっています。1998年のソニーVaioがブラックではなく、青みがかった灰色にしていたのに対し、『ドリキャス』は白っぽくてロゴやパッケージの一部にオレンジが使われただけ。それも今となってはどうなのでしょうか......。
■インターネット接続
上記2台のゲーム機を比較するのはナンセンスかと思いますが、決定的な違いとしては『ドリームキャスト』が最初から、インターネット通信用のアナログモデムを標準搭載していたのに対して、その次の世代機といえども初期「プレステ2」にはそれが搭載されていませんでした。あの当時は何かにつけて「ドットコム」と謳うのが流行で、あの時の投資家たちも全てのブランドに
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ネット接続機にするか、(投資家との)関係を壊すかのどちらかしかない。
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という話をしていたほどだったのに、です。
もうひとつ大事なのは、『ドリキャス』のお値段が29,800円だったのに対し、セガよりずっと大きな会社であるソニーの「プレステ2」はリリースからしばらく39,800円だった、というプライシング。当時の経済状況からしたら、購買層の興味とお財布の紐の硬さがどう反比例したか、ですね。
オンラインでゲームをするには先取りし過ぎたのかもしれませんが、当時ソニーが将来の高速インターネット接続に向けたインフラ整備に投資していた間、セガは『ドリキャス』がただのゲーム機ではないぞ、ということを周知すべく、各地でネット操作のデモンストレーションや授業を繰り返し行ったり、学校などに無料で3000台もの『ドリキャス』を配ったりしていたのだそうです。
オンライン・ゲームどころか、インターネットそのものがまだ新しかった時代、日経ウィークリーの一面ではオンライン・ショッピングで、とある商品が1ヶ月に10個も売れましたよ! とニュースにしていた頃がありました。
そんな中、セガはインターネットサービスプロバイダ(ISP)でリンクを開発していたり、副社長だった広瀬禎彦さんがアットネットホームに移られたりしました。ISP事業は株式会社CSKがやっており、ブリティッシュ・テレコム社やAT&T社とも展開し、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国で『ドリキャス』販売時のプランなどをアレンジしていたそうなのですが、アチラでもネット回線は遅かったのです。当時は、日本でもネット接続は電話回線で、1分間に33円を支払わなければいけない時代でした。
ISPは儲けの多い業種ではありますが、1999年には『ドリームキャスト』からインターネット接続を利用して遊ぶユーザーは多くなく、セガにISP経由で儲けをもたらすまでは至っていなかったそうです。もし、『ドリキャス』がインターネットのアクセスポイントとしても使えていたら、テクノロジー面で今でもまだ新型「プレイステーション」と張り合っていたかもしれませんし、ユーザーも多くがついてきていたかもしれません。
技術的には、「プレイステーション」よりも『ドリームキャスト』のほうが優れている部分があったと言えるかと思いますが、セガは経済状況をかなり切り詰め、最後には家庭用ゲーム・コンソール開発から撤退してしまいました。
その一方、「プレイステーション2」は東芝と共同開発した、優秀な128ビットCPUがあり、これはソニーのイメージ戦略と相まって、「プレステ3」へと続き、今ではそろそろ「プレステ4」が登場する、というような息の長い商品となりました。
今になっても根強いファンが多くいる『ドリームキャスト』。時には工業デザイン科の学生さんが後継機のコンセプト・デザインを考案したり、今でも新作を作り続けている男たちいたり、実際には一年ほど前に『GUNLOAD』というタイトルも登場しています。商業的な成功はアレだったかもしれませんが、このようにアツいファンを多く生み出したという点では、大成功だったコンソールでしょう。
The Dreamcast Was A New Console For A New Console Generation[Kotaku]
(岡本玄介)
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