シューティングゲームはお好きですか。
シューティングと言っても『ギャラガ』や『グラディウス』のほうじゃなくて、『コール オブ デューティ』や『Halo』のほう。FPS(ファースト・パーソン・シューティング)...と言ってもいいですが、TPS(サード・パーソン・シューティング)も含めて、ゾンビ、エイリアン、そして人間などの敵を銃で撃つゲームです。
「敵を撃つゲームは楽しい」。でも、そう大っぴらに言うのは気が引けたりしませんか? それは「人(のような何か)を殺すこと」が楽しいと言っているように聞こえるからです。この手のゲームは暴力的な描写でよく批判されますが、FPSやTPSの楽しさの中心にあるのは本当に「殺すこと」なのでしょうか?
本日は米Kotakuのスティーブン・トティーロ編集長がシューティングゲームについて書いた記事をご紹介します。内容は主にFPSについてですが、それに近いことがTPSやそのほかの「敵を銃で撃つゲーム」にも言えるのではないでしょうか。
シューティングゲームの本当の楽しさはどこにあるのか、詳細は以下で。
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「なぜ人は敵を銃で撃つゲームが好きなのか?」
『コール オブ デューティ ブラックオプス2』の発売から数日後、発売元アクティビジョンは同作がどれほど人気のあるシリーズかを豪語する毎年恒例のプレスリリースを発表した。
アクティビジョン代表のボビー・コティック氏のコメントがニュースを飾った。
コティック氏のコメントは、世界中のオレンジの数よりリンゴの数のほうが多いと言われて感心するタイプの人には歓迎されるかもしれない。だが実際のところ同氏の計算には、『ハリー・ポッター』や『スター・ウォーズ』のVHS、DVD、Blu-rayおよびダウンロード収益は含まれていない。
コメントはアクティビジョンの好業績を株主に印象づけるためのもので、(ユーザーから開発者、そしてもちろんメディアまでがこぞって言いたがるように)ビデオゲーム産業がいかにビッグかを宣言するものだ。映画と同じくらいの収益を上げるんだから、それはもうビッグですよ、軽く見てはいけませんよ、と。
ただ...ゲーム好き、またはゲームで生計を立てている人々は、なんとなく劣等感のようなものを感じている気がする。ゲームはビッグだと世界に認めてもらいたい。それがことファースト・パーソン・シューティングの話になると誰もがバツが悪いような気分になり、ゲームをしない人や年配の人、政治家や知識人、そのほか誰にでも暴力的だと拒絶されないか恐れている。
それなのにシューティング・ゲームのバカ売れぶりはどうだ。これらは特に名作というわけでもないはずだ。パッと売れては消えていくアクション映画のようなもの...いや、そうだろうか? 今のゲームにある1番良い所がきっとシューティングゲームにはあるのだ。『Halo』と『コール オブ デューティ』の新作がまた発売された今シーズン、僕はそんなことを考えていた。
ゲーマーはなぜこんなにシューティングゲームが好きなのか? なぜ僕らはこれを楽しいと感じるのだろう?
先日、シューティングゲームの人気の理由と、なぜビデオ・ゲームというメディアにこうもマッチするかについて、僕なりの考えを『ニューヨーク・タイムズ』に書いた。
抜粋して紹介しよう。
良くできたシューティングゲームは戦略的決定を研究する場所であり、反射神経と知力の実験場となる。武装して戦うチェス。自分のターンを待って休むヒマはない。
ある人はビデオゲームは掃除をするのと同じで、画面から敵を消し去るのに一番効果的な道具を見つけることだと言った。『Halo』では銃とグレネードと近接攻撃が掃除機、モップ、雑巾の役割を果たす。最近の作品では装備も増えて、『Halo 4』では空に浮くセントリーガンやジェットパック等、ほかにもいろいろある。
よくある戦闘のパターンは、敵に近づいてグレネードを投げる、敵のシールドの効力をなくしてから銃撃でさらに弱らせる、走って行って殴る、後退して回復を待つ、といったものだ。
『Halo』の最高の楽しみ方は難易度をアドバンス(上級)にして敵と戦い、新しい戦略を繰り返し試しては周囲の武器や装備をかき集め、最適な戦略を見出して敵を簡単に蹴散らせるまでになることだ。こうしてストレスのある状況のもと決断を下していくことが、競争の激しいマルチプレイで予測不能な対戦相手を迎え撃つトレーニングになる。
『Halo』で対戦に没頭する時間は、トレーニングジムで運動に没頭する時間に似ている。実生活のいろいろなことを忘れて汗を流し、終わった後の達成感と、前よりもいくらか進歩した自分に喜びを感じる。
プレイヤーに決定を行わせるという点で、シューティングゲームは非常に優れている
。個人的に良いゲームとはプレイヤーにユニークな決定を行わせるゲームだと思っているので、シューティングゲームで遊ぶことの楽しさはもちろんよくわかる。
『ニューヨーク・タイムズ』の記事には、賛否含め多くのご意見をいただいた。
ある読者は僕が客観的な事実を述べていないとして、人がシューティングゲームを好きなのは暴力的な表現が好きだからだと反論した。ゲーマーは人を殺すことを模擬的に体験して楽しんでいる、と言いたいのだと思う。残虐な優越感に浸るのが好きなのだと。
その考え方で言うと、僕らはロボットの形をしたアバターよりも、人の形をしたアバターの頭を吹き飛ばす方が好きで、ただ相手を打ち負かすことに喜びを感じさせるゲームの方が好きだということになる。
これらすべてを言われたわけではないが、ゲームで遊ぶときに僕らが暴力描写にどれほどスリルを感じるかを考えることは意味がある。シューティングゲームで相手に見せかけの痛みをもたらすことにスリルを感じる者はいないと言えば、それこそ客観的事実に反するというものだろう。
僕がインディーズゲームやそのほかのジャンルを差し置いて、圧倒的な人気ジャンルであるシューティングゲームを賛美しているという意見も複数あった。これは『タイムズ』がもっとクリエイティブに挑戦的なゲームや一風変わったゲームをもっと取り上げないことへのメディアに対する批判に思える。言い訳になるが、今年はKotakuが『タイムズ』に記事を提供して以来、より多くのインディーズゲームやマイナーゲームを紹介してきた。
しかしこの批判のなかで、ある注意すべき点に気がついた。シューティングゲームはジャンルとして成功しているが、一方で市場にあふれすぎている。
単に数が多いためにゲーマーの目に触れる機会も多く、その結果、気に入る人が増え、買う人が増える。買うということはサイフを使って人気投票するようなもので、シューティングゲームはさらに増える。このサイクルでシューティングゲームは市場にあふれ、常に進化し続ける。
シューティングゲームには至る所にジャンルへの入り口が用意されるため、ほかのジャンルのゲームに対して、またプレイヤーが独自の戦略を研究できるようなほかのゲームに対して、FPSが不当なアドバンテージを得ることになる。
プレイヤー自身の選択を要求するゲームはFPSだけではない。ただ最も素早く直感的な判断が必要とされ、その判断に瞬時に結果が示されるジャンルではあると思う。プレイヤーは問題(敵)に直面すると同時に、今どうするかの判断を次々に行わなければならない。引き返す、前に走る、リロードする、エイムする、撃つ、グレネードを使う、近接攻撃する、後退する、助けを呼ぶ、などなど。だからシューティングゲームは特別な存在にあるのだと思う。
『タイムズ』の記事を気に入ってくれたKotaku読者のDocSeussさんが、ゲーム掲示板「NeoGAF」にシューティングゲームについての考察文を投稿している。ご本人の承諾のもとで、ここに転載する。
確かに仕組みは簡単だし、手軽に遊べるから気の短い人やあまり時間のない人にも都合がよく、実に幅広い層の人に受け入れられる。でも実際のシューティングゲームはプレイヤーの頭の良さを必要とするものだ。
シューティングゲームと比べて、ターン制のゲームで次の動きを考えるのにそれほど頭を使う必要はない。なぜなら考える時間があるからだ。息をつくヒマがある。考える時間があるほど、より良い決定を下しやすい。ターン制のゲームを馬鹿にしたいわけじゃないし、そんなことをする方が馬鹿げている。
ターン制でもプレイヤーの考える力はもちろん必要とされる。ただ個人的には、ターン制でのプレイヤーの頭の使い方は主に論理か数学的な考えに基づくもので、シューティングゲームが要求する知能ほど刺激的ではないと思う。
シューティングゲームを過小評価する人たちは、よくこんなことを言いたがる。「シューティングゲームなんて、ターゲットを狙ってボタンを押すだけじゃないか」。質の悪い開発者もそう考えているふしがあって、だから彼らの作るゲームはその程度なんだ。
たとえばチェスはわかりやすいゲームだけど、「チェスはシンプルで手軽に遊べるから、頭の悪い人がやる頭の悪いゲームだ」なんて言われることはない。それがシューティングゲームだと、人はいつもそう言いたがる。
シューティングゲームで必要とされる思考力をここに並べてみる。
論理・数学:シューティングゲームではリソース管理が重要。残弾数はどのくらいか? 今後どれだけ消費するか? 現在のリソースを売ることで購入できるアップグレードは?
空間認識:自分と自分以外の物の位置関係は? 敵はどこから撃ってくる? 敵はどこに向かって動いている? 自分はどこに向かう? どこに向かって撃つ?
対人:自分のいる方向に攻撃してこないかどうやって確認する? 敵を自分の射程範囲に誘い込むにはどうしたらいい?
身体・動作:現在の位置関係ならエリア内でどう動くべきか?
さらに、これらすべては即時に判断する必要があるため、リアルタイムのプレッシャーも加わることになる。
右エリアに行くのをやめるか? 今の残弾数は? あいつを射程に呼び込むにはどうする? さっきいなくなった敵は奇襲をかけてくるんじゃないか?
ゲームのプレイ中、常にこれらを考え続ける必要がある。確かにシューティングゲームは誰でも遊べるが、上級者になるには相当の思考力と精神的な鍛錬が必要とされるのだ。
シューティングゲームは間違いなく最も知能的なゲームの一種だ。僕はコンボの組み合わせを覚えたり、RPGで次の一手をじっくり考えたりすることに興味はない。それは僕の知能をあまり必要としないからだ。
だがシューティングゲームは? すごく頭を使う。頭の良い人のための頭を使うゲームだ。素晴らしい。
彼の書いた内容に僕も大体うなずいた。
『タイムズ』の記事の後、ラジオ番組でシューティングゲームの魅力について話してほしいという依頼を受けた。普段はキル/デス比なんて言葉はまず出てこない番組だ。いい話ができたと思う。番組終了後に、自分の子どもがなぜシューティングゲームが好きなのかやっとわかったという親からの感想もあった。
これからは発売元のCEOがどれだけ稼いだかは関係なしに、ゲーマーにとってどれだけ価値ある体験かという意味で、FPSの重要性を人々が理解する時が来るのかもしれない。
それで、僕らはシューティングゲームをどう捉えればいいのか?
僕らはたまにはFPSに危機感を持つことも必要だと思う。これらのゲームが残酷な暴力描写を賛美しすぎることは不快に思うべきだし、痛みの描写に何も感じなくなるのは良くない。少なくとも、ゲーマーはシューティングゲームの何が好きなのかをはっきり声に出していくべきだ。またシューティングゲームにどれだけ時間と予算をつぎ込むかにも注意したほうがいい。同じだけの時間と予算を使って遊べる素晴らしいゲームはほかにもたくさんあるのだから。
僕はシューティングゲームが必ずしも最高のゲームだとは思わない。ただシューティングゲームは、ビデオゲームというメディアが得意とするものをやってみせるのに最適なのだと思う。
米Kotaku スティーブン・トティーロ
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シューティングゲームはリアルタイムで素早い判断が要求される、頭を使うゲーム。プレイヤーが魅力を感じるのは、暴力よりもそのゲームとしての楽しさだ...とまあ、短くまとめるとこういうことでしょうか。
上のコラムには海外読者から数多くのコメントが寄せられました。「言いたいことをいってくれた」というFPSファンもいれば、意外に多かったのが「シューティングは確かにペースが早いけど、それほど頭を使うものでもない」というコメント。シューティングゲームはもっと直感的で単純なもので、スポーツや鬼ごっこと同じだという人もいました。
また途中引用されていた「DocSeuss」さんのターン制ゲームとの比較については「両者で使うのはまったく違うタイプの思考力」、「比べること自体おかしい」などの反論が。
興味深いのは、複数の読者が「ミリタリーシューティングにはもう飽きた」と言っていること。実際シューティングゲームが世界的に人気になってからもう何年も経ちますから、そう感じるプレイヤーが増えても不思議はないのかもしれません。
Why We Like To Shoot[Kotaku]
(さんみやゆうな)
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