二十世紀が終わり、日本興業銀行、富士銀行、第一勧業銀行が日本初の銀行持株会社みずほフィナンシャルグループを発足した。表に首里城の守礼門、裏の紫式部と源氏物語が描かれた二千円札が発行され、五百円硬貨も新しいデザインになった。
健ちゃんが付き合って以来初めて、本を読んでいたのでびっくりした。『チーズはどこへ消えた?』というアメリカの童話だった。考えるところがあったのだろう。新しいチーズを探しに、旅立つ決心をしたらしい。
健ちゃんは、東京の建設会社を退職し、PとRの子達を連れて、千葉の実家に戻った。
健ちゃんはメスの子犬にランちゃんと名付けた。
たっくんに譲ったランの妹はアンと命名された。
ドッグショー会場で、健ちゃんとたっくんが、我が子を連れて対面した。健ちゃんはランを抱き、たっくんの手には私が買ったエルメスのオレンジ色の首輪をつけたアンのリードが握られていた。
いくら心臓でも、二人の間でにこにこ笑って話せるものではない。私は苦しくなってきた。東京を離れる時間が長くなった。
名古屋のマリオットアソシアホテルに滞在していた私に、雅也君が会いに来た。
彼は、ロンハーマンの色落ちしたジーパンに、アバクロンビー&フィッチのパーカーを着て、トミーヒルフィガーのキャップをかぶっていた。
久し振りに雅也君とセックスをした。これが彼との最後のセックスになった。
「花菜ちゃんの中に入ると、フリーダイビングをした時の感覚が重なるんだ」
と、雅也君は言った。
「フィンをつけてひらすら潜っていくと、時間、距離、重力、全てのものから解き放たれた気持ちになって、音や光や空気もない紺碧の海にじわじわ吸い込まれていくあの感覚。潜る前に小刻みに口をパクパクさせて、肺に空気を溜め込んで頭から垂直に水中に切り込んでいくんだ。体を波打たせて力を入れて潜るのは、深さ三十mぐらいまで。そこから先は浮力がなくなって、重力に任せてすうっと落下していく。海の色も群青から闇に変わっていくんだ。太陽の光が届かないからね。そこまでいくと体と心が海と溶け合っているような気持ちになるんだ。目標深度に設置されたタグを目指して潜って、そのタグを取ってからは重力に逆らって水面を目指して必死に上がる。水面に戻って空気を吸った時の感慨と、海との一体感から離れてしまった寂しさが入り混じって、不思議な気分になるんだよね」
「フリーダイビングねえ。あまり深く潜ると水圧で体に負担がかかるでしょう」
「大丈夫だよ。俺は百mなんて潜れないから」
「深く潜って水面に戻ったら、審判に向かって親指と人差し指で円を作ってアイムオッケーって言う競技でしょう? 人が生息できない深みに向かう境地にはまるのは危険よ」
「うん。わかってるよ」
新宿に拠点を移し、ホストとして、好きでもない女性に跪き、諂い、どうにかしてセックスをせず大金を使ってもらおうとおもねる仕事は、辛いことも多かったのだろう。私達は、夜中に歌舞伎町のバッティングセンターで憂さ晴らしをした。歌舞伎町は夜中の三時にバットを振っている人がたくさんいる街だった。
雅也君と駿君が新宿の店に勤めるようになってから、私は歌舞伎町の住民たちの内情を知った。
彼らが勤めていたのは『ニュー愛』で、零士がTOP DANDYで、頼朝がナンバーワンを張っていた時期と重なる。雅也君の御蔭で、靖国通りから新宿通りにかけて新宿二丁目を横断する仲通りの両側に広がる店にも出入りした。
発展場で寝待ちしているゲイや、クラブイベントで派手な女装をして踊るドラッグクイーンや、男らしさむき出しのゴーゴーボーイ、ノンケなのにゲイや女性とセックスをする出張ホスト、バーやマンションの個室で客を待つ売り専の男性や、茶色い小瓶を鼻から吸引して男性とホテルに行く男性がいっぱいいた。
ボーイズマッサージと呼ばれていたマジックミラー越しの待機ルームと性的サービスを行う個室がある風俗店や、マンションの一室に事務所を置き、客からの電話を受けて、従業員のボーイを指定の場所に向かわせたり、マンションにサービス専用の部屋を用意している個室ホストもあった。
九十年代前半は、まだインターネットも普及しておらず、ボーイの特徴を電話で説明するか事務所に置かれたアルバムを見て、ボーイを指名するというシステムだった。ホストが自宅で営業したり、出張している人もいた。個人営業のマッサージ店として、ゲイ雑誌に広告を出している人もいたのには驚いた。
私が「イケメン」という言葉を知ったのは、ゲイ雑誌だった。ゲイの嗜好は多種多様で「バラ族」「さぶ」「G─men」「Badi」といったゲイ雑誌を読むと、こんなニーズがあるのかと蒙を開かれた。
文通欄のページ数の多さに圧倒されたし、同性との交流を求める彼らが書いたプロフィールを読むのも楽しかった。
「男同士の愛の場所は薔薇の木の下だった」というギリシャ神話が元になった『バラ族』は、私が生まれた年に月刊化されたという。私は「アナルローズ」という言葉の意味を知った時から、雅也君がしているセックスについて想像することをやめた。
売り専ボーイやホストが、お金を介して女性を相手にする場合、彼らはまず何とかセックスしないで済ませようと考える。
私は、彼らがどうにかしてセックスせずお金を貰おうと権謀術数をめぐらせている会話を耳にし、びっくりしたことがある。女性が望んでいるのに、セックスしたくない男性がいるとは新鮮だった。異性愛者の売り専男性でさえ、お金を払う女性とのセックスを面倒がり、女性相手の性感マッサージでは、なるべく性的なサービスはしたくないと言うのだ。
女性とセックスがしたくて売り専をしている男性には会ったことがない。
ノンケの男性はともかく、ゲイの場合、女性相手に勃たせるのは大変だとも言う。私が知っている売り専ボーイは、男性ファッション誌のモデルができるレベルのハンサムな人が多かった。ルックスの良い男性とお金を払ってでも付き合いたいという女性がいるから、ホストやボーイ、サパーという職業が成り立つのだろうけれど、お金を払ってくれる女性に恋をしたとか、愛情があると言った男性には会ったことがない。
私は、ホストに貢ぐ女性と、男性に対してお金を払ってセックスをする女性が理解できない。
雅也君が体を痛がるようになり、ヘルニアではないかと思うと聞いていた。
名古屋のホテルで「多発性骨髄腫だった」と、雅也君は言った。聞いたことのない病名だった。
肋骨の痛みを訴えた。貧血と頭痛もひどく、視覚がおかしいので、車の運転もできないんだと言う。
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