矢野さんは、池尻大橋駅から程近いマンションに住んでいた。世田谷公園の傍で、自衛隊や防衛省の関連施設が多く立ち並んでいる地域だった。
矢野さんに「うちに来ない?」と誘われた。てっきりホテルに行くのだと思っていたのに自宅に招かれた。1LDKのこざっぱりした部屋だった。
彼は、ジュード・ロウのように頭髪が少しM字に後退しているところがチャーミングで、額の皺も魅力的な人だった。彼は、私との年の差を気にしていた。
「私は若い男の人に欲情しないの。同世代の男性とセックスした経験はないんだけれど、興味が持てないの。怖いのよね、若い男の子が」
「怖い?」
彼は目を大きく見開いた。
「子供の頃にヒラリー・ウォーの『事件当夜は雨』っていう本を読んで、若い男の子の性欲はおかしな事件の動機になるんだって怖くなったのよね。チャンドラーの描く性的関係やスピレーンのヌーティティーとも違う、あの若さの性欲の恐ろしさは強烈な印象として残ってるの」
「アリバイに食堂でアイスクリームつきのスクランブルド・エッグを注文したポラック」
「そう!」
私達はフェローズ署長シリーズの話で盛り上がった。食と本のことで意気投合し、彼の住まいを訪れた。
私はよく男性の自宅に招かれる。それは多分、自分に危害を加える女ではないと察するからではないかと思う。
彼は、私に食事を作ってくれた。これは新鮮だった。しかもパーティでの様子から、さぞ食通なのだろうと豪勢な料理を想像していたら、彼はまず魚肉ソーセージを包丁で薄く切り始めた。
「苦手な物ある?」
と、訊かれたので、私は「化学調味料」と答えた。
「西洋人はグルタミン酸を化学的に合成した調味料を多く使った料理を食べると、手足が痺れたり、胸がムカついたりするでしょう。私、あの症状が出るの」
「チャイナ・レストラン・シンドロームだね。味の素を発明した池田菊苗博士は、中国人には神様みたいな存在なのかな」
「池田菊苗って、ドイツ留学を終えてイギリスに向かって、ロンドンで夏目漱石と同じ下宿に住んでいたことがあるのよ。1901年のことだから味の素を発明する七年前ね」
「花菜ちゃんは味の素に興味があるの?」
「漱石が好きなの」
「へえ。俺も化学調味料は好きじゃないし、うちにはないから安心して」
「それは良かった」
彼はスライスした魚肉ソーセージを、油を引いたフライパンで両面焼いた。鍛造のフライパンは持ち手の柄と一体成型で、表面は研磨せず、ハンマーで叩いた跡が残っていた。
「このタークのフライパンはドイツ製で、手荒に扱っても壊れないし、蓄熱性が高いから焼きムラができず、外側はカリッと中はジューシーに仕上がるから気に入ってるんだ」
と言い、彼は、焼き色のついた魚肉ソーセージを小さな丼に盛った白飯の上に並べ、醤油を回しかけて、どうぞと差し出した。
冷蔵庫からすぐきの漬物とはまぐりの時雨煮を出し、汁椀に味噌を入れ、やかんから熱湯を注いだ。箸でかき混ぜると、みじん切りにされた長葱が浮かんできた。鰹節と煮干しを粉状に砕いて葱味噌と混ぜてあるという自家製即席味噌汁がやけに美味しかった。
「魚肉ソーセージがこんな立派な丼になるなんて…おいしっ」
「鶏の唐揚げが好きでよく作るんだけど、唐揚げで使った油で焼くのがポイントだね。一度揚げ物した油って旨みが出て油臭さが抜けるから、炒め物につかうと風味がいいんだよ」
「魚肉ソーセージ丼、病み付きになる味ね。いやあ、びっくり。焼いたさつま揚げに生姜醤油をじゅっとかけて炊き立ての白いご飯と食べる美味しさに似てるわ。私、蒲鉾や竹輪が大好きで、魚肉の練り物に目がないの。竹輪に青海苔と紅生姜の衣をつけた磯辺揚げなんて、毎日食べても飽きないわよ」
「へえ。それは気が合うな。俺は海苔弁が大好きで、ちくわの磯辺揚げが食べたいがために海苔弁を買うようなもんだよ。ビールの肴には魚肉ソーセージ炒め。腹が減ってる時は白飯にのっける」
私は矢野さんのことが好きになった。
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